年別アーカイブ: 2026
真の平等の世界とは?
今世の中は
争いが絶えない世界。
今まで、多くの戦争を体験して
戦争によって悲しい思いはしてるにも
関わらず
人類の争いは絶えることない。
でも
かつて争うことがなかった
平和な時代があったそうだ。
その時代は
日本では縄文時代
世界ではレムリア時代と考えられている。
どうして戦争がなく
平和な時代だっただろうか?
僕なりに考えてみようと思います。
縄文時代には
いわゆる「人間はこうあるべきだ」という
意識がなかった気がします。
そうすると
しあわせだとか
こうするとしあわせじゃないということが
行動の基準にならないのではないでしょうか?
生きていくのに必要なだけの
獲物、木の実が採れればラッキー
採れなければしようがない。
例え隣の村では
獲物が捕れて、自分の村では逃げられたとしても
それはしかたがないこと
また自分たちのところにも
獲物が捕れる時が来るんだと思ってたのでしょう。
村の中でも
食べ物を分け合って暮らしてたようです。
でもその時には、平等に分けるという
考えはあまりなかったようです。
からだの大きい人、力仕事をする人は
たくさん分けて居たようです。
こどもたちは、おとなよりも
分け前は少なかったようですが
誰も不平は言いません。
不平等とも思わず当たり前のことと
受け止めて居たようです。
それに比べて、現代社会では
基本的人権が保障され、なおかつ
みな平等であるべきという
思想が広まりすぎている気がします。
平等という言葉がひとり歩きしすぎて
「誰もがたべられるように」
「仕事もしないでお金が入るように」
「ひとりでもいきていけるように」など
国も個人も
平等ということにこだわりすぎて
ひとりひとりの個性を疎かにしてしまい
他人と自分を比べてしまうように
なってしまっていないだろうか?
人は
なにももたずに、平等に生まれてきたのに
物をもっていないことに
いつの間にか不安な気持ちに
陥ってしまうようになり
真の平等の意味を忘れていないでしょうか?
みなで真の平等に気づいたときに
真の平和の世が訪れる気がするのです。
⭐︎ノートをはじめました。
お時間があれば読んでいただければうれしいです。
神の慈しみ
神は
人は神になぞらえて創造されたというけど
神と人のエネルギーの差は大きいのは
明らかな自明なこと。
神の大きなエネルギーのおかげがあるから
僕たちは
今こうして生きていけるのだと思う。
神の存在を直接感じることは
難しいけど
その存在を昔から伝わる神話や
いい伝わっている伝承などで
我々は神を感じることができる。
また
聖書や仏典など
聖人が神について語ったもので
神の存在を感じることができる。
僕は神について
こう考えるのです。
神は神話の中では人格化されているけど
人の姿で現れるわけではありません。
神を感じるエネルギーは
大自然の営みの中に感じます。
光として、星として、風として、雨として、
人として、あらゆる創造物として感じられます。
ですから
神様のご神体を慈しむのではなく
自分の周りに存在すること
自分の周囲に存在する対象物
全てに慈しみのこころをもつことです。
そのこころをもつたけに
お釈迦様は無罪の七施を説きました。
ご存じですか?
①眼施:どんな存在に対しても優しい眼差しで接する
②和顔悦色施:いつでも笑顔で接する
③言辞施:誰に対しても優しく慈悲深い言葉をかける
④身施:自分のからだを使ってできる奉仕を行う
⑤心施:他の存在のために心配りをする
⑥床座施:譲れる物はゆずる
⑦房舎施:自分の居る場を他の人のために活用する
これが
「無財の七施」の実践です。
神様の存在は目に見えないけど
どこにでもいらっしゃるのです。
だからいつでも、どこでも
神様に失礼のないように
行動することが
神の慈しみの教えなんでしょうね。
⭐︎ノートをはじめました。
お時間があれば読んでいただければうれしいです。
https://note.com/fit_crab143/n/n6c5f3e7f29f7
シェルブールの雨傘
古典の名作であるこの映画を
初めて見た。
映画が始まって
全ての台詞が音楽になっていた
ミュージカル風であったことにびっくり。
最初は、その台詞に
ついて行けるか心配だったけど
そこは、さすが作曲者のルブラン。
美しい旋律、台詞をも音楽に変えて
全く不自然さなどではなく
またたく間に映画に引き込まれていった。
映画は
カトリーヌドヌーブ演じるヒロインの
叶わぬ恋が描かれていた。
恋が引き裂かれたのには
親の反対
徴兵制度などの社会状況などの要因が
あるが
彼女は17歳、彼は20歳なのを考えると
まだまだ結婚は早いという親の立場は
よくわかる。
もっといろいろ経験してから
安心して家庭をもってもらいたいと。
この映画でも
やはり恋は成就できなかったけど
愛し合った記憶は永遠
相手を思う気持ちは
形を変えてずっと続くと言うこと
時代が変わっても変わらないことを教えてくれる
今も色あせない内容の映画だった。
⭐︎ノートをはじめました。
お時間があれば読んでいただければうれしいです
感染対策も大切だけど
年開けからまたインフルエンザ感染は
春を迎えて
徐々には減っているものの
まだまだ気を許さずに
感染対策が必要な状況は続いています。
感染対策といえば
コロナ感染と同様、
三密を避ける
手洗い、マスクをつけた行動
消毒の徹底が
基本とされています。
これらは
自分の外側の環境を整え
ウイルスの侵入を防ぎ
侵入しようとするウイルスを
殺菌するということに
主眼をおいている。
これだけでは十分ではないから
感染は収まっていないのだろう。
外側の環境を整えるばかりでなく
内側の環境も整えないといけない。
病気は
外からやってくるのではなく
内側からやってくるのです。
同じ今を生きていても
感染する人、いない人がいる。
症状が出る人、でない人
重症かする人、後遺症もなく治る人もいます。
これは、感染だけに限ったことではない。
同じ不衛生な環境に居て
同じ水を飲み、同じ食べ物を食べても
赤痢になる人もいる
下痢にならないひともいる。
死んでいく人、生き続ける人もいる。
この状態を克服するために
人は清潔な環境を作り
栄養豊富な食べ物を大量生産し
薬を開発し、医療を発達させた。
地球の環境を変える力を
人はもったと思ってはいけない。
大地の自然の力は
人の英知を超えたところにある。
だから
地震がおこり
人間が創り出した外の文明は
内なる力にいとも簡単に破壊される。
人は、今
自分の内にある力に
地球や宇宙の内にある偉大な力に
気づかないといけない状況になっている。
だから、
人は衛生にたより、消毒に頼り
栄養にたより、医学にたよるのではなく
自らの生命の内に内蔵されている
真の知性に気づき
その気づきに従って生きることを
求められているのかもしれない。
⭐︎ノートをはじめました。
お時間があれば読んでいただければうれしいです。
他者依存
他者依存
という言葉があります。
最近
自分がしあわせなのか
わからないという人が増えていると言います。
それだけでなく
素晴らしいと思ったことを
自分ひとりでは確認する自信がないのです。
誰かと一緒に見た人が
感動してくれると
安心して素晴らしいのだと言うことが
初めて言えるのです。
だから自分で撮った写真や動画を
SNSなどでアップして
他の人に見てもらい
その感想で素晴らしさを
それだけでなく
自分がしあわせさえも確認しなければ
判断できない人が増えているようです。
自分自身の内側から湧き上がる感情さえも
他者によって支配されているかのような状況。
これを「他者依存」というのです。
これは、自分の感情がわからないというより
自分の感情をもっと受け止めてもらいたいという
自己欲求のなれの果ての感情
なのかもしれません。
自分を信じることに
自信がなくなってくる。
だから自分ひとりで楽しめない。
悲しめない、怒れない、笑えない
という状態になってしまう。
これからの時代
自分自身をまず大事にすることが
大切になってくるのでは
ないでしょうか?
⭐︎ノートをはじめました。
お時間があれば読んでいただければうれしいです。
健康な人とは
健康な人とは
あなたはどんな人だと思いますか?
五体満足な人?
病院にかかっていない人?
薬を飲んでいない人?
それでは
パラリンピック選手は
健康でないですか?
脳梗塞をおこさなように
お薬を飲んでる人は健康でない人?
生まれつきホルモンを補充している人は
健康でないのでしょうか?
健康というと
肉体的に病気がない状態と
考えてしまいがちですが
僕は病気があるかどうかだけで
健康であるかどうかは決まらないと思ってます。
僕が考える健康な人とは
今の自分を
精一杯生きている人のことを
いうのだと思います。
病気やけががあろうとなかろうと
今の自分の気持ちや状態を
しっかり受け止めて
今を生きている人が
健康だと思うのです。
メタトロンを行うと
臓器の状態の様々な状態がわかります。
全く問題ないから
少しエネルギーが落ちている
病気になっている状態まで
様々です。
でも
症状のない人もいます。
思ったところが悪くなく
別のところが悪い方もいらっしゃいます。
メタトロンしていて思うことは
その部分が悪い、いいと判断しないこと。
悪いから
あせって治療をしなくてもいい。
大事なのは
今の状態をいい、悪いとはんだんするのではなく
今、こんな風にからだは頑張ってくれているんだと
ありのままの自分を受け止めることが
大事なんだと
メタトロンは教えてくれます。
ありのままの自分を
まずは受け止めて生活することが
健康な人の生き方なんだと
メタトロンは教えてくれます。
あなた自身の
あなた自身の状態を
わかってあげるだけで
からだは健康の道へと進み始めるのです。
ヒューメイン・フィーリング
前回のブログで
「恕」について解説しました。
今回の言葉は
「ヒューメイン・フィーリング」という英語。
この言葉の日本語訳は
なかなかおもいあたらなかった。
この言葉を知ったのは
美智子皇太后様が平成天皇と
ご成婚前の美智子様の
ご母堂様のテレビインタビューを見たときでした。
記者が
美智子様のご母堂の正田夫人に
「皇太子殿下はどんなかたですか」と
質問したときの答えが
「とてもヒューメインな方です」と
答えられたのです。
どんな意味だろう?
きっと暖かいという意味なのかな?
とかってにおもってそのままにしていました。
最近になって
この言葉を思い出し辞書を引くと
「ヒューメイン」は「慈悲の心、思いやり」と
書かれていたのです。
なんだかしっくりしないけど
そうなんだと自分を納得させていたのですが
今回、改めて「恕」という言葉と出会い
「ヒューメイン・フィーリングは、恕だ」という
思いが強くなりました。
人間生活で
決して忘れてはいけないと考えがあれば
「ヒューメイン・フィーリング」であり
「恕」であると思ったのです。
「恕」という言葉は
キリスト教の「愛」仏教の「慈悲」
と同列だと思ったのです。
そしてこの言葉は
医者として忘れてはいけない
思いであると思うのです。
死の道程
石原慎太郎氏の絶筆となったエッセイ
「死の道程」を読んだ。
昨年の秋
余命3か月を宣告され
その後の思いを綴った作品。
息子さんから
日記のような物を勧められたようだが
できあがったものは
数ページのエッセイを最後の思いとして
残された。
石原慎太郎氏は
政治家としての顔もあるが
病気にも負けずに
筆を休ませることなく
小説を発表され
法華経の口語訳をされたり
死とも向き合ってこられた方でもある。
そんな氏でも
死の宣告を受けたときには
思考の半ば停止状態になったと。
そして
なぜか青春時代から何度も読んだ
ヘミングウェイ作「陽はまた昇る」の
主人公になった夢をみたと。
戦争によって不能になった主人公が
昔愛した彼女に対して
新しい彼との門出を祝福しに行く主人公の夢。
石原慎太郎氏は
自分の人生となにを重ねたのだろうか?
若き日の
忘れられない思いのたけがそこにあったのだろう
誰にもある
甘酸っぱくもあり、ちょっぴり苦い
今あのときに戻れたら
少し人生が違っていたかも・・・という
淡い思い出はあるはず。
氏はきっとそれを思い出したのだろう。
そして
死と向き合ってきた
最後の死に対する思い
死の先にあるものについてこう書き残している。
「虚無は歴然として存在する。
そして、人間の新年や予感も狂わせかねない。
死、そんなものなどありはしない
ただ、この俺だけが死んでいくのだと」
死の宣告を受けて
思考停止に陥ったと。
そして女々しく死んでいこうと。
きっと頭の中で考えた死ではなく
こころの中で感じた
死があるということなのだろう。
思考停止した先にある
死について
語ることはなかった。
死の道程にあるもの
それをみつけるために
誰もが生き続けているということを
氏は教えてくれているのだ。
医のこころ、恕のこころ
「恕」というのは
自分のことのように相手のことを考える
という意味だけど
この思いを、医療に携わるものは
持たないといけない言葉である。
「恕」はもともと「論語」の言葉です。
少し紹介します
講師の弟子に子貢という男がいました。
彼は常に自分の行動指針を
講師に仰いでいた。
また孔子の教えを
自分のものとすべく、日々精進していた。
しかし孔子から教われる全てのことの
全てを学びとることはできないと思い
ある日、師にこう訊ねた。
「これさえ守っておけば
人の道にはんさないという言葉を
一つ教えてください」
すると師は、
「それは、恕かな」と答えたのである。
人間は誰でも自分を愛している。
けれども、
他人のことも同じように愛しなさい。
というのが孔子の答えだったのです。
そして
医療に携わるものだけでなく
全ての人に通じる
大切な言葉だと思うのです。
久米宏です
今年開けてそうそう
飛びこんできた悲しいニュース。
久米宏さんがお亡くなりになったニュース。
若き時代
「ぴったしカンカン」「ザ・ベストテン」
「ニュースステーション」など
その時代を
それまでの常識にこだわらず
独自の目線でテレビを通じて
目の前に飛び込んできて
テレビの前に釘付けになっていた。
最近久米宏という名前をはテ
レビで見かけることがなく
テレビ番組のパワーががなってきた時の
悲しいお知らせ。
そして
久米さんが書いた本があることを知って
読んでみた。
そこには
久米宏さんならではの苦悩が綴られていた。
誰にも表の顔と裏の顔があるもの。
もちろん久米さんにも
その苦労が綴られて
番組の裏側を垣間見た気がした。
そして
久米さんが一生懸命に
僕たちを楽しませるために
頑張ってくれたことに感謝の気持ちにあふれました。
久米さんありがとうございました。
安らかにお休みください。
最後に久米さんの言葉を書いておきます。
「自分の人生全てが偶然そのものだ。
偶然に乗り合わせた船を漕いでいただけなのです。
のりかかった舟は、漕がねばならない」 久米宏
