「真実の医療」カテゴリーアーカイブ
座敷わらし
座敷わらしってご存じですか?
名前の通り
こどものお化け?で
座敷わらしが現れた家は
縁起がよく
繁栄すると守り神として
しあわせを運んでくれる神様とも言われ
座敷わらしのでる旅館などは
多くの人が泊まりたがるとか・・・
まさに
繁栄に導く神様と
今でも信じられているのです。
座敷わらしが
家に住む条件は
その家の人が決して驕らず
周りの人たちのしあわせをも
願うことができる人。
座敷わらしが運んでくれたかもしれない
しあわせを
独り占めせず
そのしあわせを分かち合うことに
しあわせを感じるひとに
しあわせを届けるような幽霊?
のような気がするのです。
だから、こんな風な話を
耳にすることがありました。
宝くじが当たった人の
仕事がスイスイうまくいった人の
その後の幸運が続かなかった話。
幸運を手に入れた全ての人で
内だろうけど
その転落人生はよくテレビなどで
話題になります。
それは
きっと幸運を手にした人の
驕った気持ち
それを戒めるために
座敷わらしは
僕たちの心の中にいるのでなにでしょうか?
幸運なことがあっても
幸運を独り占めしたりせず
ちやほやされた自分を
偉くなったと勘違いしない
謙虚な気持ちを忘れないように
しなくてはいけないことを
昔から日本人は
座敷わらしという幽霊がいると
戒めたのでしょう。
オリンピックで
メダルラッシュで湧く日本。
メダルがとれた後のインタビューで
驕らず、謙虚に対応できる選手の後ろに
にっこり笑ってる
こどもの姿を見た気がします。
座敷わらしだったのでしょうか?
自然の声を感じるとき
朝陽が昇る前に
家を出て
氏神様のお参りをして
日の出の時間を迎え
今日も生きていることを
感謝する時間を
毎日過ごせることで
生きていることを実感すると共に
生きていることに感謝し
今日も生きて生きると決意を新たにして
その日をはじめています。
毎日続けられているのは
僕にとって
生きるための儀式になっているのかも
しれません。
そして
同じ時間に家をでても
毎日違った光景を
見せてくれます。
感じさせてくれます。
天気予報では
今日も真夏日だと
夏盛りの日が続くと伝えています。
でも、朝
外に出ると
朝の空気が肌に突き刺さってくるような
感じではなく
優しく感じるのです。
そして、耳を澄ますと
虫の声が聞こえてきたのです。
その虫の声に耳を傾けていると
もう、次の季節に進んでいることを
自然が
母なる地球が伝えてくれている気がします。
自然を感じながら歩き続けると
神社には大きな木があります。
その大きな木に近づくと
木から体全体を包み込むように
柔らかい風を感じるのです。
とっても。とっても
肌に優しい風なんです。
朝は
自然からのそして地球からの
メッセージにあふれています。
地球に生まれ
自然に育まれて
生きていることを実感すると共に
感謝の時間なんです。
だから
僕は1日も休まずに
歩き続けれるのだと思います。
記憶の中のしあわせ探し
今こうして、毎日思いを綴っています。
書き綴る内容は
今の出来事に、医療に
自分自身に対して思うこと
そして
未来はこうあって欲しいと思うこと
などを書き綴ってます。
思いのベースになっていることは
今までの経験や思いです。
ですから
生い立ちなど
自分のこれまでのことを
自分自身を振り返ることにも
なります。
過去の自分を振りかえって
ブログを書くことも多くなります。
過去の自分を振り返る
時間をもちながら
記憶の中にある自分自身を向き合ったとき
気づいたことがあります。
幼い自分は
確かに自分自身ではあることは
間違いないけど
実は自分ではない存在であることに
気づいたのです。
今の僕は
記憶に残っている僕とは
容姿ひとつとっても
全く異なっています。
それだけでなく
住んでる環境も
一緒にいる人だって
違っています。
そして
過去を振り返ったとき
僕が探すのは
楽しい自分、しあわせな自分の姿。
また
不幸せな自分であっても
その時があったから
今の自分があると思える自分探し。
人は
昔がしあわせだと思うことで
いまがもっとしあわせだと思いたいのです。
今も過去も
しあわせな自分でありたいと思って
生きているのです。
僕たちは
いつもしあわせでいるために
生きているのでしょうね。
闘魂の気持ちをもって
最近見た
アントニオ猪木さんのYouTubeは
衝撃でした。
現役時代から強さのオーラがあふれていた
猪木さんのイメージからは
想像もできない
変わり果てた姿に
衝撃をうけました。
老いた姿と言うより
死線を彷徨っているかの姿。
必死で
好きなメロンを目の前にして
生きようとする
ギリギリの感じのメッセージを
伝えようする
アントニオ猪木さんの
強さに感動しました。
人間誰しも
衰えた姿は人には
見せないようにするし
動物でさえ
死ぬところは
見せないようにして
最後を迎えるというのに
アントニオ猪木さんは
どうして?なぜ?と思っていました。
その後
猪木さんのこんな言葉を知りました。
「人生に花が咲こうと咲くまいと
生きていることが花なんだ
生まれてきたことが花なんだ」
そう
生まれてから死ぬまで
生きている限り
生きていくことが花なんですよね。
どんな状態になっても
生きていることが花。
その姿に恥じることはない
と言うことを教えてもらった
強い、強い言葉。
そして、その言葉を自ら実践している
今のアントニオ猪木さんの姿だったんです。
素晴らしい
文字通り強い気持ちを持った
闘魂の男なんですね。
僕もアントニオ猪木さんの
言葉を心に留めて
生きていこうと思いました。
追記
その後もYouTubeを更新され
その時の思いを発信されています。
その言葉をいくつか最後に
ここに記録しておきます。
「今日も生きている
明日はもっともっと元気にいきる」
「次の時代に向けて
発想の展開をする」
「これからは
地球と世界を綺麗に
していかないといけない」
「今、何ができるか?」
1 2 3 ダーーーーー
肉体を監督する存在とは?
からだは、家などの建造物と違って
からだの中身も構造も
時間が経つと変わっていることが
わかっています。
10年も経てば
細胞ひとつから
10年前の細胞と全く別の
細胞に置き換わっているのです。
そして毎日の生活においても
僕たちは
毎日食べ物を摂取し、排泄し
その繰り返しを日々くり返す内に
日々
からだの内容を変えているのです。
それなのに
肉体的変化を
感じながらも
統一した同じ自分、自己を
維持し
生涯ひとつの肉体、人生を形作って
生きていけるのは
不思議だと思いませんか?
自分が、自分としての生涯を生きていけるのは
そこには
自分のからだをまとめてくれている
主宰舎のような力が
働いているからではないだろうか?って
感じるのです。
この力があるから
60兆もある細胞
それも日々変化している細胞を
統一されて
昨日と同じ自分
1年前と同じ自分
死ぬまで同じ自分として
生きていけるのでは
ないでしょうか?
僕たちが
今ここにいられるのは
この僕たちのからだをまとめてる
監督のような力の
おかげなんでしょうね。
この自分自身をまとめている力は
自分がこうしようと思って
できるような力ではありません。
この力は
自分では意識できない
深いところにあり
今の科学では解明できないような
非常に複雑な力、働きであり
この力は
自分だけでなく
生きている人や動物、植物にも
存在し、それぞれに働いているのです。
それは
この地球上の生物だけでなく
地球そのものにも
太陽にも
宇宙全体にも働いている力が
存在してるから
僕たちは、今ここに存在できるのでしょう。
この宇宙全体を統一している力のことを
我々は昔から神と崇めている
存在なのかもしれません。
病気の休日が欲しい
入院中は
日曜日も、祝日も土曜日もなく
毎日決まる
リハビリのスケジュールをこなすのが
入院中の僕の生活でした。
もちろん
先生、看護師さん、リハビリのスタッフさんは
休みがしっかりとれる体制で
毎日おこなわれる
リハビリをサポートしてくれてました。
機能回復ために
1日でも無駄にできないので
毎日、休むことなく
そして、世間ではコロナ感染中の中
リハビリができることは
とても有り難く環境にあることに
感謝していました。
でも
時には休みが欲しいなぁと
勝手なことを思うもですが
病気になった人にとって
僕よりも長く闘病している方もいる
痛み、きつさなどの苦痛と戦っている人もいる
強い治療に耐えていらっしゃる方もいる。
僕なんかより
ずっとずっと
病気に苦しんでる方もいらっしゃる。
・・・・と思った瞬間
今まで担当させていただいた
患者さんの顔が目に浮かび
その思いがこころの中に
こだましたのです。
長く病気をしてる方にとって
一番の願いは病気が治ってしまうことでしょう。
でも、治癒の道はまだ途上だと思っているときに
ますは
一日でも病気の休みがあればと
願うでしょう。
明治時代の俳人正岡子規が
こんなことを書き残しています。
「願わくば、神まず余に
1日の暇を与えて
24時の間自由に
身を動かし、たらふく食を貪らしめよ」と。
また
こどもが病気になった時、親は
わたしが代わってあげたいというのをききます。
僕たち医師としての願いも
病気を治すことが
一番の目的だけど
1日でも病気の苦悩を忘れられる
病気の休日を作ることも
考えないといけないと思うのです
メタトロンが教えてくれること⑪体に表れる気づきのサイン
僕たちが
この世に生まれ生きているのには
きっと意味がある。
この世でやらないといけないこと
学ばないといけないことがあるから
この世に生まれきたのだと
僕は、思っています。
でも、生きているときは
どうして今ここにいるかなど
目的を忘れてしまうし
違う方向に行っていたり
無理をしていて
頑張り過ぎていたりしまう。
そっちに頑張りすぎていても
気づかないのは
どんな状況でも
自分自身を応援している
自分のからだが頑張っているんです。
僕たちが
がんばれるように
支えているくれていることが
メタトロンを通じて
教えてくれます。
メタトロンで
異常を示すところは
え?この部位に異常が?って
ことが多いです。
痛くも、かゆくもない
思っていなかったところだったりします。
それをみて
このメタトロンが間違ったことを
示してるてるわけでなく
この部分に負担がかかってるよ。
症状がでないように
からだが頑張っていることを
教えてくれるんですよね。
からだ自身が
僕たちが頑張れるよう
この世の思いを実行できるように
いつも無言で
支えてくれているんですよね。
でも、からだだけでは
支えることが難しくなったら
からだに色んなサインをだすようになります。
頭痛が表れるのは
頑張りすぎていること
だるいのは
休んでもらいたいこと
眠れないのも、食欲が落ちるのも
からだが支えるのが
限界に近づいてることを
教えてくれているんですよね。
いわゆる
からだからのメッセージなんですね。
ですから
頭痛があるのに
痛み止めを飲んで、痛みをごまかしても
また痛みがでる
それも薬が効かなくなるのは
からだがもっと強く気づいて欲しい
メッセージを伝えているのです。
からだからのメッセージは
僕たちのことを思ってのサイン。
だから気づいて、指示にしたがって欲しいのです。
自覚がなくても
メタトロンで頑張ってうことがわかると
いたわりの気持ちをもてもらいたいのです。
その様に
生きていくと
今、生きている時間が
とても輝きだすことでしょう。
本物の味を知る
入院を経験したことのある方から
こんな話をきいた。
入院中
治療のため
絶食を強いられていた時期が
あったそうです。
絶食中
絶食後初めて食べるものは
どんな食べ物でも
どんなに美味しいことだろうと
思っていたそうです。
しかし
絶食後はじめて口にした
おかゆがとてもまずかったと
教えてくれました。
おかゆは
お米と水が大切なので
とてもシンプルな分
最高のごちそうになるけど
まずい食べ物になるのです。
その患者さんは
舌で感じる味覚の感覚が
絶食したことによって
磨かれ、敏感になったのです。
おいしい水、お米の味を
区別できるようになったのでしょう。
それからは
それまで嫌いだった野菜のおいしさが
わかるようになって大好きになったとか。
僕たちがおいしいと感じるのは
舌で感じた味覚に対して
驚きがあるときなんだと思う。
この驚きを産むために
最近テレビでは
魔法の粉とか、別の素材を使って
驚きのおいしさを演出しようとしているものが
増えてると
舌の味覚が衰え、
本物を知る感覚が麻痺してしまいます。
いわゆる
おいしさを手軽に感じるために
巷では
添加物が多く含まれる食品にあふれています。
実際
舌が元気だと
添加物が多いと
味が濃く感じたり、
なんだかその素材に違和感を感じて
食が進まなくなるのです。
おかゆでさえまずく感じた患者さんは
絶食したことによって
舌の麻痺していた感覚も
改善したのでしょう。
現代は
一年中、季節に関係なく
好きなものをいつでも食べられる
時代に生きているのはのは
しあわせなことでしょうか?
最近、肥満や腸の異常で
受診される方が増えてきている気がします。
自然にあるはずの
本物を取り入れていれば
こんなに今苦労しなくても
良かっただろうにと
食生活の話をききながら
思います。
今からでも遅くありません。
人の手のなるだけかかっていない
自然にある本物のものを
取り入れて生活して欲しい。
そのことをお伝えしたく
患者さんにお話しています
僕が飛び跳ねる理由
オリンピックの連休を利用して
映画「僕が跳びはねる理由」を
観た。
この映画は
自ら自閉症があり
今は作家、エッセイスト、詩人として
活躍中の
東田直樹さんが13歳の時に書いた
「僕が跳びはねる理由」を
海外の映画監督の手によって
映像化されたドキュメンタリー映画。
この映画には
東田直樹さんだけでなく
世界中からの
自閉症の方の生活や
また、
ご家族のインタビューを通して
僕たちに
「普通とは?」
「個性とは?」
「会話(=コミュニケーション)の大切さ」
「多様性の重視」など
普通に生活している人でも
分断を感じるこの
コロナの時代だから
また奇しくも
オリンピック東京大会が開催される
時だから
今よく耳にする
多様性の意味を
考えさせられる映画であった。
映画のあとに
現在の作者自身のインタビューが
紹介された。
東田直樹さんは、
世界はひとつ。
自閉症が差別と偏見ない世界になることを願う
そう思って希望を持つことで
この世を変えていくと思う。
これからも
全ての人が愛と絆を忘れずにいれば
自閉症などの多様性があっても
生きていける。
とも語られた。
全人的に診療するとは
我々医師は、毎日
患者さんのからだを
毎日に診させてもらっています。
患者さんのからだを
診察するってこと
つまり病気を診るために
医師は
全てを全身全霊込めて
患者さんと向き合っています。
でも
医者も人間。
これまで生きてきた中で
様々な勉強、経験をして
最高の治療を提供していくために
勉強しています。
しかし医師も人間
医師それぞれ
考え方も違います。
色んな考え方に対して
医者はこうあるべきだと
医師を戒めるような言葉があります。
最近よく耳にする言葉に
「病気を診ず、患者さんを診なさい」
「全人的に患者さんを診なさい」と言われ
そうあるべきだと
僕も思います。
しかし
言葉で言うのは簡単でも
実際は難しい。
病気の痛み、つらさなどの
症状をこることは
医師として医師としての経験、知識を
駆使すれば
患者さんの臨むレベルの治療をすることは
可能かもしれません。
でも
病気をしたことによって
生活がどう変わったか
お金に困っている
ご家族が困窮している
職場や学校生活での苦悩
色んな問題が
病気になったことで表面化し
それが原因かもしれない
大事な事柄なのもわかる。
だから
病気を診るだけではなく
患者さんの生活、生き方にまで
意識を向けないといけないということを
僕は思うし
その意味で、「全人的」という意味は
理解できるけど
それを、僕ひとりの力だけで
解決することは難しい。
病気が治すためには
なんと言っても
本人の力、そして気づきが必要なのは
わかってきている。
生命を含めて
患者さんの苦しみの全てを
解除するのなんて、無理な話。
そんなとこができるのは
神様しかできないでしょう。
ただ医師として
僕ができることは医師の仕事は
検査したり
投薬、手術などの医療行為を
おこなうだけでなく
病気がよくなって
仕事も、人間関係も改善し
将来が明るくなることを
病気を診ながら
その患者さんの明るい未来を
祈ることが
全人的に診ることなんだと思う
