「今日の言葉」カテゴリーアーカイブ
「登る山を見つければ、もう半分上ったのと一緒」
この言葉は
ソフトバンクの孫正義氏が
よく口にされる言葉らしい。
山とは何でしょう
目標、ビジョンなど
山の解釈は人によって
様々だと思います。
いろいろ解釈があっていいと思います。
目標が見つかったなら
もう半分くらい目標は達成されている。
目標が見つければ
動き始める事ができます。
目標も、ビジョンがなければ
何をどうするかがわからないことでしょう。
ですから
目標を見つけることが大事だと
大経営者である
孫正義氏はいっているのです。
【ラビンドラナート・ドゴール「果物採集」より】
最近
海に行き、山に行き
太陽の光を浴びながら
海のものをとって食べ
畑に行って採れたての野菜を食べ
自然の中に身をおき
自然からのエネルギーを
いただくことがありました。
そんな時に
自然の中で生かされているんだと
感じた時に出会った詩。
ドゴールの詩「果物採集」
「危険から守り給えと祈るのではなく
危険と勇敢に立ち向かえますように
痛みが鎮まることを乞うのではなく
痛みに打ち克つ心を乞えますように
人生という戦場で味方を探すのではなく
自分自身の力を見いだせますように
不安と恐れの下で救済を切望するのではなく
自由を勝ち取るために耐える心を願えますように
成功のなかにのみ
あなたの恵みを感じるような卑怯者ではなく、
失意のときにこそ
あなたの御手に握られていることに
気づけますように。」
この詩の中に
だれにもどんな時でも
生きていく力が自分自身の中にあること
そして
しあわせに生きていくヒントがあるような
気がしたのでご紹介します。
他人ごとで生きていかない
最近、色々な人と会ってお話すると
自分のことなのに、
どこか他人事のように思って
すっと身を引いてしまっているなぁと
思う方が多い気が気がします。
そう、思う理由はおそらく
「自分のキャパシティはここまで」と
自ら線を引いてしまい
「それを越えるものについてはうけいれない」と
決めてしまい
「あ、もう無理だ」と思ってしまい
逃げているのかも知れません。
だから、冒険したくない
チャレンジしたくない
失敗したくないなどと言って
自分に能力が実はあるのに
ガンバらない理由がここにあると思うのです。
これもある種の
自己防衛なのかも知れません。
新しい事を
はじめないと行けない局面になると
人間は
守りにひってしまい
必死になってやらない理由を探し出します。
この状況を打破しないと
人間成長できません。
この状況を打破するには
自分は、こうありたい
こんなことをしたいと
熱い情熱が必要です。
年を重ねると
情熱の灯火さえ
消してしまおうとしていませんか?
情熱の炎は
死ぬまで燃やすことは可能だと
僕は信じています。
是非、情熱の炎を燃やし続けて
生きていきましょう。
いのちは地球よりも重い
僕は
人間が生きていくには2つの面が
必要であると思います。
ひとつは
衣食住という動物的欲望を満たす
いわゆる生活面を重視する面「生活体系」
そして、もうひとつは
真善美を求めて行動する人格を形成する
いわゆる生命を重視する面「生命体系」
この両面から
いのちは支えられていると思います。
もう少し具体的に言うと
生活体系とは、いのちを支えている活動のこと
つまり
利益や欲望を充足させるという経済法則を重視したもの
これに対して生命体系とは
いのちは尊いものだというような
親子のつながり、日本で生まれたことによって
培われた道徳的なつながりとも言えるもの
この2つの体系、価値観の中で
僕たちのいのちは支えられ
生きているのだと
改めて自覚させられた気がします。
昭和50年代に
日本赤軍がダッカで飛行機をハイジャックし
身代金などを要求したダッカ事件がありました。
その時の総理は
「人間のいのちは、地球よりも重い」と
様々な批判を交わして
16億もの身代金を決断して
乗員乗客のいのちを救ったと聞きました。
今回の政府の動きは
ダッカ事件の時とは異なり
いのちだけでなく経済重視するあまりに
迷い行動できなくなってるように
僕は見えてしかたありませんでした。
ダッカ事件から時は流れ
時代は昭和から平成、令和と変わり
その間平和で豊かな時代を過ごしすぎて
明日の喜びより、今日のパンを求める生き方を
してきた日本人の体質が
決断できなくさせているような気がします。
人はパンがなくては生きていけないけど
パンを美味しく、そして有り難いと思える気持ちを持って
僕たちは生きていかなければならないってことに
気づき、その気持ちを大事にして
これからは生きていかなければならないのでしょうね。
感謝の気持ちで運命を切り拓く
稲盛和夫さんが、ご自身の著書の中で
「運命を変えるためには
よいことに出会おうとともに
悪いことに出会おうとともに
どんな運命に出会っても
出会ったことに対して
感謝する心で対応することです。
でも、これは大変難しいことだ」と
書かれていました。
確かに災難に遭っている時や
苦難な場面に直面したとき
その境遇に感謝しなさいと言われても
現実的には
とても難しいことだと思います。
実際
僕も病気になったときに
病気はきっと僕に伝えたいことがあるから
しっかり病気という運命を受け止めて
感謝しないといけないと
頭でそう思っていても
実際には難しいものです。
これから先どうなるのか
不安な気持ちが増すばかりで
感謝するっと思えない時間は
過ぎていきました。
でも
時間が経つに連れて
不安が少しずつ取りのぞかれる内に
病気を通して
自分と向き合う時間が
病気を通してとれて
様々な気づきをいただけたことを
知りました。
ですから
今は、病気をすることも僕の運命
そして
その病気ということに運命に出会ったことで
僕のからだも、考え方も、環境も大きく変わりました。
今では
病気は僕を大きく変わるきっかけをくれたのだ
感謝の気持ちでいっぱいです。
病気をしたことを悔やむのではなく
感謝するものだと思えたことで
僕の運命は
大きく変わったのです。
どんな時にも
それは自分にとって必要なことなのですね。
だから
悪いときにも
感謝の気持ちを忘れないことって
大事なんですね。
逆に、良いことが起こったときには
感謝の気持ちを忘れないかと言えば・・・
そうでもないと思います。
良いことが起こったのは
自分が頑張ったからだとか、
ちょっと自分の力に有頂天になってしまって
感謝の気持ちを忘れそうです。
良いことがあったときには
自分だけに
こんなに良いことがあっていいのだろうか?
もったいないことだぁと言う風に思うことができれば
感謝の気持ちがわいてきて
謙虚に振る舞うことができないでしょうか?
良いときも奢らず、偉ぶらず、謙虚さを失わないで
今、こんなにしあわせなんだと
感謝する心を持つことが
大事なんだと思うのです。
苦しみの時にも
神が気づきいてもらいたいことがあるから
こんな災難が起こったのだ
しあわせな時も
今のしあわせは
おまえだけのものでも
おまえひとりの力で達成できたことではない
と今の現実を
感謝の気持ちを持って受け入れること。
そうすれば
運命は変わってくるのだ。
と稲盛さんは言っているのだと思います。
ヤンヤン 夏の思い出
この映画はニューシネマの名称ヤン監督の
遺作となった長編映画で
2000年第53回カンヌ映画祭で
監督賞を受賞した作品。
コンピュータ会社を経営する父と母
高校生の姉そして祖母と
高級マンションで暮らしていた
主人公・小学生ヤンヤンの家族の物語。
祖母が脳卒中で倒れてから
ヤンヤン一家の家族に起こったことが
描かれていた。
姉の苦い初恋を描くとともに
父親の初恋の人ととの再会が描かれるとともに
これから始まりを予感させる
ヤンヤンの恋の始まりを思わせる行動など。
家族の思い出と現実が
過去と現実と
同じ事を体験する
淡くも苦悩するこころ模様を
ガラス越しに被写体を撮影したり
こころの裏表を描き分けるところに
巨匠らしい巧みの技を随所に感じさせてくれた
名作だった。
サンタブログ202605
#92人はなぜラブレターを書くのか
綾瀬はるか主演の
「人はなぜラブレターを書くのか」を観た。
20年前に起こった
日比谷線の脱線事故で起こった
実話を元にした映画。
20年を越えて
亡くなった人の思いを胸に
残された家族、友人、先輩、恩師など
の心の中に
ずっと生き続けていた主人公。
その当時の思いは
当時のままで心の中にとどまっている。
その思いを持っている限り
亡くなった人は
心の中に生き続けている。
しかし、その思いをどうすればいいのか
わからずに生き続けてしまう。
でも、いつかは
その思いにけりをつける必要がある。
その手段のひとつが手紙、ラブレターで
あることをこの映画は教えてくれた。
その手紙には
死者が死者の人生を生きてきた証
そして、その証が確実に紡がれていることが
嘘偽りではない
その人しか書けない
生の字として感じられる物だと思う。
このことはAIにはできない
温かな血の流れている人間しかできない
ことなのです。
手紙は
どんな時代になっても
なくしてはいけない大切な
ものです。
思い立ったら吉日
何かはじめようと思ったら
できるだけ早くやった方がいいのです。
じっくり考えて
確実な方法で計画を立ててから
はじめようと思ってると
いつまでもはじめられません。
考えれば考えるほど
頭の中は
失敗したらどうしようなど
あなたのやる気を押さえようと
することばかり浮かんできて
考えれば考えるほど
はじめることが困難になるからです。
思い立ったらすぐはじめること。
これは、今の時代にあった
やり方でもあるのです。
現代は今までになく不安定な時代です。
国と国の争いごとが
次から次に起こって
次の火種がどこからあがるかわかりません。
それに併せて
経済状態もこれからどうなるかも
わかりません。
人間の争いごとばかりではありません。
地震、津波、嵐、山火事などの
自然災害も予測不可能。
そして、自分自身もいつ事故に見舞われるかも
わかりません。
そのほかにも
様々な可能性をはらんでいるのが
今僕たちが生きている世界の状況でしょう。
そして
人の気持ちは
それらの状況に左右されます。
だから
僕は思い至ったら、すぐはじめましょう。
今日いいと思ったことは
明日古びるかも知れません。
今日ならできたことが
明日にはできなくなるかもしれません。
「思い立ったら吉日」なんです。
天上天下、唯我独尊
この言葉は
お釈迦様が
母親の摩耶夫人の右脇から生まれ
生まれた直後に七歩歩いて、
右手で天を指し、左手で地を指し
「天上天下、唯我独尊」と宣言したという
伝説から生まれた言葉です。
この言葉は有名で
様々な方が
ご自身の立場で解釈されていますが
僕はこの言葉を
次のように解釈しています。
天上、天下の世界全てを見回しても
人は尊い存在なのです。
だから、生まれてきたということは
全世界いや全宇宙に「ただひとり」の存在。
大切ないのちなのです。
と教えてくれている言葉だと思うのです。
科学が進んで
両親やご先祖様から
代々遺伝子を受け取って(引き継いで)
これまで自分と全く同じ存在はいない
とても稀な存在なのです。
親とも、兄姉ともちがう
唯一の存在です。
だから
ひとりひとり
生き方もちがう、物の考え方だってちがう
こころのありようだって、価値観も違います。
それなのに、生きている社会は
常識や法律で人をしばり
学校でも、会社でも
全ての人間が同一であるかのように
扱おうとします。
常識も法律も
人が社会生活を送るために
大切なものではあるけれど
その前に
自分の代わりはいない
スペアもいない。
この世の中に、
自分という存在はたったひとりしかいない
だからひとりひとりは尊い存在なのだ。
ということを忘れてはいけないと
この言葉は教えてくれているのです。
しあわせの方程式
お酒で
人生が大きく変わってしまうこともあると
今までの報道でも
自分のこれまでの人生でも
感じることがありました。
お酒には
魔力があるのだと僕はあるのだと
思うのです。
そのお酒の魔力を知って
対応して生きていかないといけません。
お酒に対抗するものとして
僕が注目しているのは
オキシトシンというホルモンです。
こんな実験があります。
オキシトシンを投与すると
アルコールに対する欲求
そして
アルコールの消費量も減るというのです。
これは
たばこに含まれるニコチンに対しても
同様の結果であったというのです。
つまり、オキシトシンには
「お酒をもっと飲みたい」
「たばこをもっと吸いたい」という
衝動を抑える作用があるのです。
もう少し医学的に解説すると
オキシトシンには
お酒をもっと飲みたいと感じさせる
ドーパミンを抑える効果もあるからなんです。
それでは
オキシトシンの分泌を増やすためには
どうしたらいいでしょうか?
オキシトシンは絆を深まると
多く分泌されることがわかっています。
つまり
絆が深まり、オキシトシンが分泌されるので
「楽しい」「うれしい」「しあわせだ」といった
幸福感が生まれてくるのです。
絆が深まる
環境が整えば、整うほど
オキシトシンが分泌され
しあわせを感じるのです。
ですから
家飲みをするより
居酒屋などや
例え公園であっても
みんなでわいわいして飲んだ方が
オキシトシンも多く分泌されるので
楽しくて
路上のみが増えるのも
当たり前のことなのです。
今はコロナウイルスを防ぐ観点から
仕事さえテレワーク
密を避け
人の接触をさけることを
求められる時代になっています。
感染を防ぐためには
やも負えないことかもしれませんが
しかし
それでは、オキシトシンの分泌も減り
しあわせな生き方ができなくなります。
これからの時代
絆を深める生き方
つまり
家族との絆を深めるなど
リアルでは
本気、本音の付き合いできる
関係を深めるなど
お酒の飲み方だけでなく
人との付き合い方も
考え、大事にしないといけない時代になっくるのでしょうね
牛に引かれて善光寺参り
僕は神社参りが好きで
毎朝起きたら氏神様参りをして
一日をはじめます。
旅行した時には
近くの神社をチェックして
時間があれば参拝しています。
なぜ、神社に行くかといえば
神様にご挨拶して
御利益をいただければと
ちょっとよこしまな気持ちが
ないわけではありませんが
参拝すると
単純に清々しい気持ちになって
元気をもらえるからです。
こんな神社巡りが好きな
僕が最近出会った言葉。
「牛に引かれて善光寺参り」
という言葉。
この言葉を聞いたとき
自分のお参りを見透かされた気がして
ドキッとしました。
この言葉の由来は・・・
「昔、信濃のある国に
不信心な老女が軒先で
布をさらしていると
突然大きな牛が現れて
その布を角に引っかけて
駈けだしたのです。
老女はあわてて牛を追いかけました。
牛は善光寺の本堂まで来ると
消えていなくなったのです。
実は、この牛は
観音様の化身だったのです。
それ以来
老女は善光寺を信仰するようになり
極楽往生した」
というお話です。
お伊勢参りにしても
神社を参拝する目的は
神様にご挨拶するだけでなく
参道の
おまんじゅう屋さんやおみやげもの屋さん巡りが
楽しいものです。
いわゆる
物見遊山の参拝なんて
いかがなものと避難するものではなく
目的は何であれ
参拝して、神様に手を合わせることが大切だ
この言葉は教えてくれるです。
僕が神社巡りをするのは
単純に元気をもらえること
そして
参道でおいしいものに出会えることが
多いからです。
こんな僕でも
神様はニコニコして
僕を迎えてくれる大きな方です。
みなさんも
時間があったら
神社巡りおすすめです。
