月別アーカイブ: 8月 2021
日本語は深い
毎日日本語を使って
ブログを書いてるし
ブログを書くだけでなく
毎日日本語を使って
日本人である僕は
当たり前のように
日本語を使って生きている。
何気なく日本度を使って
暮らして生きているが
何気なく使っている
日本語の単語一つ一つに
意味があるのです。
例えば、東西南北の意味は?
東は 陽の頭がでるかから
陽のかしら(頭)→ひがし
南は みんなが太陽を見るから
みなが見る →みなみ
西は にを下ろして、仕事を終えるから
にをしまう →にし
北は 気がたまる
北はエネルギーをためる →きた
だから
北枕で眠った方が
よく眠れると言います。
ちなみに
夜と言う言葉は
気が蘇るという意味
からきているようです。
ですから
夜遅く寝るのはよくないのですね。
エネルギーが復活することなく
朝を迎えると
その1日が元気に過ごせず
そんな生活をくり返していると
エネルギーが枯渇し
病気に向かうことが想像できますね。
夜は
エネルギーを充填する時間
睡眠が大事だと言うことを
昔から日本人は知っていたんですね。
さりげなく使っている
日本語は深い
これからの時代
グローバル化になってきているからこそ
日本人が
日本語を大切にしていかなければなりませんね
君が代の力
オリンピックが終わり
パラリンピックが始まりました。
パラリンピックでは
日頃目にしない
競技を知る機会になり
また競技が異なっても
障害のあるなしに関わらず
選手達の
頑張ってる姿にこころふるわされます。
テレビで
選手の姿に感動しただけでなく
何度も”君が代”を聞く機会があり
君が代のもってるすごい力に
気がつきました。
メダル授与式では
金メダル授与式では
金メダル選手の栄誉を讃えて
金メダル選手の国歌に合わせて
国旗が掲げられますが。
実は
試合開始前に
両国の国歌斉唱があるんですよね。
その場面を観て
君が代のもってる力を感じました。
君が代を斉唱した後には
どこかシーンとした
場が静粛された印象を
テレビを観ていて感じました。
代わって
欧州の国歌斉唱。
明るくて、聴き終わった後には
闘志あふれる気持ちになりました。
どの国の国歌にも
様々な力を与えてくれます。
僕は
君が代には
君が代を歌うことで
場が静粛になるのではないか
きっと
その場の魔を払い
浄めてくれる力があるような
気がしたのです。
そんな時
こんな話をききました。
古来から伝わっている歌として
和歌があります。
最も古い歌は
スサノオが八岐大蛇を退治して
めでたくクシナダ姫と結ばれたときに
歌われた和歌
「八雲立つ 出雲八重垣 妻こみに
八重垣作る その八重垣を」
と言われています。
和歌は
57577の31文字でできています。
なぜ31文字なのでしょう?
31と言う数字は地球が太陽の周りを回る
時間を365日を12月で割った数になることを
現しているという話を聞きました。
そして
君が代の歌詞を見てみると
「君が代は
八千代八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
こけのむすまで」
で字数を見ると
5/7/6(字余り)/7/7
で32文字なんですね。
この31文字でなく
一字多い32文字だと言うことに
意味があるのです。
和歌の字数は
お日様の周期を現していると
書きました。
お日様は昼間の世界を支配し
夜の世界を支配している星はお月様
お月様の周期は
太陽の周期よりも1日ほど
短いことが昔からわかっていました。
昼と夜の周期の差が
1日ほどある
昔の人々は
その1日の狭間に
”魔”が入り込むと考えました。
その”魔”を払うために
1文字多い32字の”君が代”を
作ったというのです。
小さい頃から
必ず式典の前にみんなで歌いました。
運動会でも、入学式でも、卒業式でも
みんなが集まる場では
必ず歌ってました。
幼い頃は
義務的に歌って(歌わされて)
退屈だなと思ってました。
でも今
改めて
君が代を歌ってる場を客観的にみたり
自分が経験した
君が代を歌ったときのことを思いかえすと
確かにどこか
静粛な気持ちになったことを思い出しました。
”君が代”を歌うことで
その場の”魔”が払われ
浄められてたことを実感しました。
あらためて君が代のもってる
すごい力を知りました。
昨今では
君が代を歌わないことも
増えているとか?
オリンピックの国歌斉唱を聞きながら
どこか
荒れ始めている気がする昨今を
浄め、乗り切るためにも
国歌斉唱の意義を再確認するときに
きている気がしました。
作られたしあわせ
今若い人たちの間で
昭和の時代がブームだとか。
山口百恵、松田聖子、中森明菜などの
昭和アイドルの歌が
その歌詞に
描かれる世界に憧れるようだ。
今の時代
会えない時でも
メール、LINE、インスタ,Face Bookなど
今すぐ連絡をとる手段がいっぱいあります。
でも、昭和の時代は
今連絡とりたいr時には
家の電話しかなく
本人がでるともわからず
でも、連絡したいから
思い切って電話する。
そんな
今ならもどかしいような
生活スタイルが
新鮮なのかもしれない。
そして
昭和喫茶を訪れる人も多いとか。
昭和の調度品や
クリームソーダやミルクセーキ
鉄板に乗ったパスタでなくスパゲッティなどの
懐かしいメニューが求められるとか。
若い人にとっても
なぜか懐かしさを感じるという。
そして
そのどこか懐かしい風景を
記録しようと
写真をとるのが
今の時代の楽しみ方。
写真を撮って映えるもの
つまり
写真映えするものを
喜ばれるようだ。
写真映えするものが人気だから
写真映えするものを作ろうとする。
つまり
インスタ映えする風景を
作ろうとする。
でも
インスタ映えを求めるあまり
真実の姿を感じ損ねていないだろうか?
インスタ映えする写真は
確かに一瞬心ひかれるが
なぜか、すぐその気持ちを忘れてしまうから
不思議。
その写真は
真実の姿ではなく
作られた部分だけしか
切り取られていない気がする。
世の中を見渡せば
つくられたしあわせであふれている気がする。
そのインスタ映えするしあわせを求めることで
インスタ疲れしてないだろうか?
本当のしあわせは
写真の中にはない。
写真には記録されない
この目でしか見ることのできないもの
肌でしか感じることのできないぬくもり
としか
感じられないのだと思う。
作られたしあわせではなく
日常生活の中に
本当のしあわせが光ってることを
忘れてはいけないと思う。
病気に感謝
病気になって1年以上
生活復帰して1年以上経ち
僕の生活は
病気する前と
同じようにできるようになり
できるのは
リハビリのおかげであることは
間違いありません。
しかし
病気の前後と全てが全く同じというわけではありません。
どうして
治った部分と
治らなかった部分がでてきて
しまったのでしょうか?
それは
僕が今生きていくために
必要なことは
回復できることができ
改めなくてはいけなかったことを
学ぶために
完全回復できなかったのかなぁと
思ったりします。
一番異なることは
ひと言で言えば
走ったり
ある行動をするときに
どうしても今までよりも
時間がかかってしまうことでしょうか?
走れなくても
一歩一歩歩くことが
大事なんだと言うことに
気がつきました。
振り返ってみると
それまでの自分は
忙しく、走り回るのが
いいことだ、
時間は自分で作って
働き、色んな会にも参加してました。
でも
生き急いでいたことを
教えてくれたんですよね。
今回の病気で
一歩一歩確実に
今日会った人とじっくりと
向き合える時間
そして
魂と魂の交流をするべく
生きていきなさいと
教えてくれた気がします。
気づきを与えてくれた病気に
今は感謝の気持ちです。
本①神との対話
入院中リハビリ以外の時間は
安静の時間。
コンタクト
お盆の最後に観た映画「コンタクト」
20年以上前のジュディ・フォスター主演の
SF映画だけど
衝撃的内容でした。
なぜ、このお盆の
最後を飾るように観ることになったのか
見終わった後も
なぜか不思議な感じでした。
こんな個人的な感想で
何を言っているのだろうと
思っているかもしれないので
内容のあらすじを少し紹介します。
(ここから**内はネタばらしの内容が
含まれます)
*天文学者エリーは
こどもの頃から、今は亡き父親の影響で
この広い宇宙には
地球人以外の生命体の存在を信じ
研究を続け
ついにベガ星付近から発せられた
電波信号を傍受し
人類はその信号を解読し
人類を宇宙空間に移動できる設計図であったことが
判明しました。
そして
エリーがその器械に乗って
宇宙へ、ベガ星へと瞬間移動したのです。
しかし
実験はエリーが乗ったポットは
一瞬で破壊され大失敗に終わりました。
でも
エリーは
その一瞬と思われたことを
18時間に渡って記録してたのです。
しかし
記録していたものは
電気的ノイズでしかありませんでした。
しかし
エリーは経験していたことは
美しい宇宙の存在
父の姿となって
エリーに
「これが人類が宇宙にでる第一歩であること」
「この広い宇宙で
決して地球人はひとりぽっちじゃない」
というメッセージを受けたのですが
それを人に伝える手段を何一つもたないのだから
エリーした経験を伝えるのは
エリーの想いしかありません *
この映画はいってるのです。
今生きているのは
大きな存在の一部として
生きていること。
人には説明することはできないけど
確かに存在してるものはあるんだと。
僕も思います
実際、人の経験も知識も
自分以外の人に説明する
信じてもらうのはとても難しいけど
経験した人だけが
伝えることができる世界は
確かに存在してるのです。
目に見えない世界を
目に見える法則として証明するのが科学
こころで感じることを大事にするのが宗教
この二つとも
真理の世界を追求する目的では
同じではないでしょうか?
医学も
科学だけで証明することだけでなく
あなたがそしてぼくが感じる
こころの部分も大切にして
真理を追求する時代になってきたのだと思います。
サンタブログ20210825
病気の本質とは
今苦痛の状態にはない
苦しんでる症状がない
苦しみを感じないからといって
健康だと言えるだろうか?
苦痛がなくても
健康でないことは多々あります。
なぜなら
苦痛を感じるのは感覚です。
もし感覚が麻痺していたとしたら
病の状態にあったとしても
苦痛を全く認識することはないのです。
このように
症状のあるなしで
病気であるかどうかを判断するのは
リスクがあると言うことです。
症状とは感覚が感じる
異常状態だと言うことになります。
つまり
からだの中に発生した
病気の源(病毒)に抵抗するために
存在を知らしめるサインです。
もしこのサインを感じる感覚が
麻痺していたとしたら
病気であっても、感じなく過ごすことで
どんどん病気状態が進行することになります。
健康な人は
病気のサインを受け取れる力が
ある人とも言えます。
逆に
健康でない人は
病気に対して正しく抵抗する感覚が
まず最初に麻痺していくのだと言うことを
知らなくてはいけません。
実は
病気だと思っている症状は
病気の本体そのものではなく
病気から発生した毒に対する
からだの反応であり
病気本体に抵抗するからだの反応だ
言えるでしょう。
例えば
熱が出るのも
体内に侵入した病毒に対して
免疫力を上げたり
抵抗しているからなのです。
この時に
解熱剤を使って
強引に熱を下げようとしたならば
病気に対する抵抗力が落ちるのは
自明なことではないでしょうか?
症状も含めて
からだに感じた感覚は
全て我々に何かを知らせようとする
サインなのです。
症状が起こったときに
一体からだに起こってることを
考えることが大切です。
医者のように医学的知識がないから
無理と言われるかもしれません。
からだの仕組みは知らなくても
あなたのからだは
あなたにしかわかりません。
どんな名医でも
あなた自身の全てを知ることは無理です。
あなたが
自分のからだと対話しようとすることで
必ず
からだ自身がその問いに答えてくれるはずです。
僕も医者として
あなたのからだの声を聞くお手伝いを
させていただくのが
僕の使命だとも思っています。
ノアの箱舟
いつ止むかもわからない
雨が続き
謎の感染症が蔓延し
人々は
息を殺し、
ただただじっと
雨が止み
感染症が治まり
真夏の日差しいっぱいにあふれ
街には
人々の明るい笑い声、笑顔にあふれる日が
来ることを願って
耐える日々を過ごしていた。
でも、全く
雨は止まず
感染は広がり、更に猛威をふるい
人々の心の中では
どんどん不安がまし
その心を解消するためなのか
あちこちで
争いごとが起こり始めた。
そんな荒れた世界。
僕は
ひとりの老人と出会った。
その老人は
「早く、舟に乗りなさい。
地球は嘆いています。
この世を変えないといけない
ことを決意したのです。
今までの世の中は、まちがいだった
ことに気づき
世界を変えようとしています。
あなた方に
次の世界を作るために
選ばれたのです。
もう、元の世界には戻れません。
戻ってはいけないことを
戻ることを地球は望んでいないこと。
今までの過ちを気づいたものが
新しい世界を作っていかなければ
いけないのです。
さぁ、早く乗りなさい」
僕は
突然会った老人に
背中を押されて船に乗り込みました。
乗った途端
船の扉が閉まり、船は出発しました。
出発したと同時に
船内に取り付けてあった
モニターの画面が
外の世界を映し出しました。
東京、ニューヨーク、ロンドンと
思われるような都市が映し出されました。
そこには
以前のように
食事を楽しんだり、ショッピングしたり
楽しむ人々の姿でした。
どこかなつかしく、うらやましくもある
人々の生活。
しかし
その後、人々の様子が変わりました。
叫び声を上げながら
一目散に逃げ出したのです。
そこに現れたのは
荒れた川の姿でした。
世界の都市の姿は全てが
荒れた川の場面になりました。
船中は
嘆く声であふれかえりました。
僕も
涙があふれ出し
人目も気にせず
これまでないくらい慟哭していたのでした。
その時
僕はいつもの起きる時間で
いつものようにベットの上でした。
今観たのは夢だったのでしょう。
でも
その夢はあまりにもリアルで
今までの生活、世界に戻れない
戻ってはいけない
新しい価値観の世界に
変えないといけない
それが今生きている僕たちの使命ではないでしょうか?
このままでは
人類は
二度目のノアの箱舟を経験する
ことになるかもしれません。
元の生活に戻るだけではなく
新しい価値観の世界を
模索していきましょう。
もともと”ひとりぼっち”
コロナ感染者が増え続ける中
人流を抑えるため
不要不急の外出を控え
人が集まることの自粛を求められ続け
行動規制することに
疲れを感じてる人々。
人間は
社会性の動物と言われるように
ひとりでは生きていけない動物。
だからなのか
「ひとりはさみしい」という科白が
耳につきます。
でも人はわがままな面もあります。
ひとりじゃないと満足かというと
感性の異なる人と過ごすと募るつらさ
誰かと一緒にいても
なぜかさびしさを感じることもあります。
人といるのに
感じるさみしさは
ひとりでいる時より
ずっとさみしいこともあります。
さみしさを感じる根本は
人といるからというものではない
と思うのです。
人はひとりで生まれてきて
ひとりで死んでいきます。
元々
人間はひとりぼっちなのが
当たり前なのです。
ひとりでは学べないことを学ぶために
この世に生きてきたからこそ
友人や仲間そして家族さえ
必要なのです。
もともとひとりぼっちで
生きてきたのに
さみしさを感じるのは
原因は人がいるいないに
左右されるわけではなく
別のことをこころが感じているのが
原因にほかならないのです。
さみしさを感じるのも
この世に生まれてきた
目的のひとつのような気がするのです。
すなわち
人間は生きている限り
孤独とも向き合わないといけないという
ことではないでしょうか?
一緒にいて楽しく食事をするのは
そんな時間をすごすのは
さみしさのなかから
独り立ちをするために
必要な過程では
ないでしょうか?
自分のこころを
紛らわすために人と過ごすのではなく
人と過ごすことで
自分とのちがいを感じ
自分の心の根本で求めてることを感じ
生きていくことを学ぶのでは
ないでしょうか?
今の時代は
みんなが
自分の心と向き合う時間を
地球が、コロナウイルスが
そしてもしかして神様から
いただいた機会かもしれません。
病気になって知った魂の役割
日本は平成から令和になり
元号が代わっただけでなく
日本全体だけでなく世界全体
もしかしたら
地球の空気が代わった気がします。
令和の令は
零=ゼロとつながっており
いろいろなことが
変化する時代に来たということを
知らせてるのでしょうか?
そんな令和の時代になって
自分は病気になりました。
病気になったことで
自分と向き合うことができ
今の自分の気持ちだけでなく
これまでの自分の生き方
気持ちを整理する機会をもらいました。
これまでの頑張りの原動力になっていたのは
好き嫌いがベースにあった気がします。
好きなものは
今の自分に必要なもの。
嫌いなものは
今の自分に必要のないもの
と言う風に考えていたかもしれません。
でも
よく考えると
好きになる理由
好きであり続ける理由はいらないし
ましてや
嫌いな理由もいらないのです。
ちょっとわかりにくいかもしれませんが
いい悪い、好き嫌いに
こだわることもないし
善悪とわける必要もないんですよね。
それは全て魂からのメッセージ
なんですね。
その行動の起点になるのは
好き嫌いという理由ではなく
魂、内なる自分が
乗り気であるか
こころを込められているかという
ことなんです
その魂からのメッセージを
頭の中で
これまでの経験で判断しようとすると
好きだから、嫌いだからという
理由付けをしてるんですね。
僕は
魂からのメッセージに従って
様々なものを
取捨選択しました。
これまで大切にしたものも捨て
これまで嫌いだったものが大切に思えたたり
一つ一つ
魂のメッセージに従って
行動しています。
捨てるときに
つらい気持ちをしたこともありましたが
今は
スッキリしています。
これまで
頑張ってきたことって
何だったんでしょう。
病気になって
魂のメッセージに従える機会を得
つまり今の自分は
病気によってリセットされたんですね。