真実の医療」カテゴリーアーカイブ

誰が悪いのか?

毎朝散歩中
色んな方にお会いする。

そして
あいさつを一言だけであっても
お互い言葉を交わすと
お互いの気持ちが行き来するからなのか
気持ちが通い合い
気持ちがよくなり
あいさつって改めて
大事な事だと気づかされる。

時には
全く見知らぬ方とお話しすることもある。

今朝お会いしたも
初めてお会いした方で
軽く会釈して通り過ぎようとすると

「梅雨明けしたのに
 変な天気だし
 最近
 嫌なことばかり続きますね。
 誰のせいなんでしょうね?」と
話しかけられた。

ほんとに
天気はすっきりしないし
世間はコロナコロナで
日々我慢を強いられ
これがいつまで続くのかわからない
すっきりしない日々が続くから
こんなセリフが口からでても仕方ない。

こうなったのは
誰のせいでもない
特定できる誰かの責任でもない
もし、責任があるとしたら
今生きている自分も含めて
今生きているひとりひとりの
生き方によるかものかもしれない。

あなたの生き方
僕の生き方はどうだろう?
自分自身を大切にして過ごしいましたか?
まわり社会に対して気づかっていただろうか?
自分の住んでる地球を
そして
今生きている時間を大切に過ごしているだろうか?

改めて振り返ると反省すべきことはたくさんある。
今の現状は
結局誰のせいでもなく
自分自身が起こしているのかもしれないと
気づいた

そして
振り返りざまに
「誰のせいでもないですよ」と
答えるのが精一杯だった。

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運がいい人とは?

脳科学者の中野信子先生の著書
 「科学が突き止めた運のいい人」に
 こんなことが書いてあった。

 「運のいい人は必ず
 自分なりの”しあわせのものさし”
 をもっている。
 自分なりのものさしを持つとは
 自分が心地よいかを知っていると言うこと。
 つまり
 どういう状態の時に
 自分はしあわせを感じるかを
 把握しておくこと」と
 書いてあった。
 
 つまり
 ”しあわせのものさし”とは
 人によってちがうということ。
 
 仕事しているときが楽しい
 スポーツをしているときが楽しい
 家族や彼、彼女といるときがしあわせ
 ひとりの時間がしあわせ
 ひとのために頑張ってるときに
 しあわせだと感じる
 など
 しあわせを感じる瞬間って
 ひとりひとり異なる。
 その喜びに
 法則も規則もなにもない

 ただただ
 自分が今していることに
 しあわせを感じることが
 ”しあわせのものさし”なんだと思う。

 それなら
 ”しあわせのものさし”って
 自分自身が心から喜び、しあわせを感じる心
 ってことになる。
 つまり”魂”が喜ぶことってことじゃないだろうか?。

 そして
 魂が喜べば
 魂があなたが喜ばすことを
 次から次に運んできていることに気づく。

 気がつくと
 きっとあなたは
 あなたの願いが叶った状態に
 なってくるのでしょう

 魂が喜ぶ瞬間を感じている時
 あなたは
 運がいいと感じるのでしょう

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神様が現れた!?

神様がいるとしたら
 いったいどこにいるのだろう。と
 思うことがある。

 神様がいると信じていても
 神様を実際に見ることって
 特殊な力がないと無理。
 僕のような普通の人間には
 実際みれない。
 神様って見たことないから
 目に見えないから
 いない?・・・ってことじゃない気もする。

 そんなぼくも
 実際にみたことは
 もちろんないけれど
 ふと、これって神様なのかな?って
 思うことがある。

 僕は毎朝
 リハビリをかねて
 近所の神社まで歩いている
 ある朝
 いつものように
 神社に行き、手を合わせていると
 とても心地よい風が
 顔の一部分にだけあたる。
 僕のからだ全体に風が吹いているわけではなく
 まさに、そよそよとした
 やさしいけど、スッキリする気がする風が
 その時はお社の右側から吹いてくきたのだ。

 それって
 ただの風なのかもしれない。
 ほとんどの人は
 風が吹いただけっていうかもしれない。
 でも
 僕には
 しあわせな気分に一瞬してくれた風が
 ただの風に思えなかったのです。
 
 神様ってやっぱりいるんだと思った。
 姿は見えなくても
 時折、風になって
 自然現象をして
 ここにいるってサインを送ってくれている。

 神様は
 いつもいてくれている。
 僕たちは
 気づかないけれど
 きっと神様に見守られているんだと思う

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涙が力をくれた

 入院から2週間ほど経っても
 まだまだ血圧は不安定だったけど
 幸い再出血の兆候もなく、
 血圧をみながら
 からだに負担の掛からないように
 例え血圧が高めな時でも
 ベット上でもできるリハビリを
 していました。

 毎日少しずつでもリハビリを続けたおかげで
 最初は指がピクピクする程度だった左手だったけど
 少しずつだけど動かせることを実感できることも
 出てきました
 2週間経った夜面会に来た妻に
 「少し動くようになったよ」と
  左手の指を曲げてみせた。
 その指をみた妻が
 自分の右手を差し出し
 「握ってみて」と握手をしてきた
 僕は左手を精一杯広げて
 妻の右手を握り、ぎゅっと力を入れてみた。
 握って力を込めた瞬間
 妻の手のぬくもりと手の拍動を感じた瞬間
 僕の左手はさらに力が入り
 もっと強くぎゅうと握れたと思う。
 すると
 今度は、妻が
 「動くじゃない。こんなに強くにぎってくれた」
 と涙を流しながら、ぎゅっと握り返してくれた。
 その涙が、また自分に力をくれたのか
 もっと左手に力がはいり
 もっと強くぎゅっと握り返すことができた。

 自分だけの力だけでは
 こんなに力がはいらなかったはず。

 妻が
 左手が動いたことを
 心から喜んでくれている
 応援してくれている
 回復を望んでくれている。
 家族の愛の力ほど強いものはない
 ということを教えてくれた。
 妻の涙が僕に力をくれた。
 
 それをきっかけに
 左手のリハビリも順調に進むようになり
 妻の涙は
 僕に目に見えない力をくれた
 魔法の涙だったと思うのです。

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コロナ感染で死亡するのは?

コロナウイルスは
 高齢者や基礎疾患がある方がかかると
 亡くなることが多いと報道がされているので
 コロナは死に至る感染症だと
 とても怖い病気だと思ってしまいます。

 実際
 コロナ感染者でなくなった方の内
 基礎疾患を持っていた割合は99.4%だという
 報告があります。
 確かにご高齢の方や基礎疾患のある方は
 コロナに掛からないようにしないといけません。
 が、逆に言えば
 基礎疾患がないかたは
 ほとんど亡くなっていないという
 ことにもなります。

 また、99.4%の方全員が
 コロナウイルスで亡くなったかといえば
 全員が全員そうではないの可能性があります。

 それは
 人が亡くなると 
 医者が死亡診断書を書きますが
 その時に注意するのが
 死亡に至った直接の病名と
 それに至る原因の病名とは分けて
 死亡診断書を書いているということなんです。

 例えば
 長期間肺がんを患っていて
 長年の癌の治療をうけていて
 全身の臓器の抵抗力が落ちしまい
 最後は肺炎が起こした為に
 亡くなった場合の直接の死亡診断は
 肺炎又は呼吸不全
 肺炎の原因が肺がんという
 書き方をしますが・・・・
 
 亡くなったかた(原因の病気はなんであれ)に
 コロナウイルスが検出されていれば
 直接の原因でなくても
 死亡原因はコロナ感染として下さいと
 と厚労省からお達しが出ているようです。

 ですから
 高血圧の人が
 脳出血を起こして不幸にも突然亡くなってしまい
 たまたま検査をしたら
 コロナウイルスが検出されてしまった場合
 亡くなった原因は脳出血だけど
 統計上はコロナウイルス感染症でなくなったことになるのです。

 末期癌の方でも
 かぜをひかれても
 肺炎を起こして亡くなることはまれではありません。
 でも、その時は数多くある風邪のウイルスが原因が考えられますが
 コロナのように追求問題視しないでしょう。

 基礎疾患がある方にとって
コロナ感染だけが怖いわけじゃない
 風邪も怖い病気です
 だから、風邪は万病の源とも言われるんです

 今回
 コロナだから
 多くの統計が世界中から発表され
 気づいたら
 統計の綾に囚われてしまって
 混乱してないでしょうか?

 コロナは世界的流行を来たし
 まだ不明なことがあるから
 色んな情報も次々にでて
 不安な気持ちになりがちですが
 いろんな角度から確認することが大事でしょうね。

 忘れてはいけないのは
 コロナウイルスも
 基本ウイルスだということです。

 ウイルス感染の基本に立ち返って
 3密などの感染経路に気をつけ
 ご自身の生活を見直し
 免疫力を落とさないように過ごすことが
 大事だと思います。

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コロナ感染症とPCR検査

 連日ニュースで
 コロナ感染症の新規患者さんの数が報告され
 毎日過去の感染者が記録更新なんて
 報道されると
 誰もが不安な気持ちになってきます。

 でも
 落ち着いて少し客観的に
 コロナ感染症の一連の報道を振り返ると
 少し不思議な印象をうける点があります。

 ※これから先は
 ウイルス感染症に関する専門家ではなく
 免疫学、ウイルスの第一線から
 離れている一開業医が
 一臨床医個人としての一般的な意見として
 読んでいただければと思います。※

 全国的にPCR検査数の陽性者の報告数が
 連日増えているのに
 今回は重症者が増えないのは、なぜだろう?

 確か3,4月は
 患者数が増えると共に
 重症者も増え、
 医療現場での人工呼吸器、マンパワーの不足が叫ばれ
 医療崩壊になりかねないので
 国全体として自粛制限を強いられたと
 理解しています。

 今回は
 感染者数は増えているけど
 重症患者は増えていないので
 現時点で医療崩壊の危機にはなく
 前回のような強い自粛は行わないと
 国は判断しているようです。

 感染者数の報告は増えている
 感染者は増えていると報道されているのに
 本当に大丈夫かな?と
 だれもがニュースを見ると不安になりますよね。

 ここで、感染者数の報告増加の基礎データにもなっている
 PCR検査について少し考えてみましょう。
 
 
 PCR検査陽性者は・・・・
 厳密にいうと
 全員コロナウイルス感染者というわけではありません。
 PCR陽性者は
 全員コロナウイルス保菌者ということであり
 つまり
 コロナウイルスを発症していない人も含まれている
 ということなんです。

 そもそもPCR検査とは
 ウイルスの遺伝子が存在しているかを判断する
 とても高性能な検査です。
 
 ウイルスの遺伝子の一部分あったり
 少ないウイルスあれであっても
 何万倍にも増幅させて判定します。
 かすかにウイルスの存在すれば
 陽性と証明できる
 素晴らしい検査方法なんです。

 ですが
 ここで今問題なのは
 コロナウイルスが一個でも見つかれば
 その人は
 コロナウイルス感染症を発症している
 感染症者と決めていいのでしょうか?

 ウイルス存在存在=感染者と考えていいのか
 ということなんです。

 ここで
 ウイルスそのものについて考えると
 ウイルスは人に寄生して
 生きていく生物です。
 つまり
 人の細胞に寄生して
 ウイルス自身が増えることができて
 初めて、熱、咳、倦怠感などの
 症状がでて初めて
 我々も病気になった
 つまり感染者を発症したと気がつくのです。

 インフルエンザ、はしかなどのような
 命に関わることの多い強いウイルスであっても
 ウイルス1個だけなら問題ないのです。
 ウイルスが存在することよりも
 ウイルスの量が重要なんです。

 そして
 現在のPCR検査は
 ウイルス量ではなく、
 存在していたいたと言う証明を
 している検査だということです。

 ですから
 PCR陽性でも
 無症状な人がいるのもうなづけます。
 このことは
 コロナウイルスだからではなく
 どのウイルスでも同じです。

 PCR陽性は
 ウイルスがいた証明にはなるけれど
 コロナウイルス感染症とは言えないと言うことです。

 でも
 感染は
 一個のウイルスが体内に侵入して
 そこで増殖して初めて病気を発症します。
 発病する人と、いない人がいるのは
 どうしてでしょうか?

 そこは
 ウイルスVS人間との戦いが
 体の中で起こっている時期があるからです。
 この時期を潜伏期間と言いますが・・・・
 コロナウイルスが1個でも体内に侵入すると
 体内では
 様々な免疫反応が起きて
 ウイルスの増殖を抑えようとしています。

 体の免疫力が強く
 ウイルスを増殖を抑えることができれば
 感染症に打ち勝ち
 病気を発症せずに済むのです。

 すなわち
 発症するかどうかは
 その人の免疫力にかかっているということを
 自覚しないと行けません。

 ウイルス保菌者が
 ウイルス感染症者にならないためには

 マスコミが報道されるような
 いわゆる”夜の街”が悪い訳ではないのです。
 夜の街で
 睡眠時間を削ってまでお酒を飲んでませんか?
 腸が休む暇が無いくらい長時間飲食をしてませんか?
 疲れがたまったまま、次の日を仕事をしてませんか?

 夜の街は決して悪者ではなく
 夜お酒を飲むことが悪いわけではなく
 あなたの免疫、体の負担になる生活を
 慎みましょうっと言うことだと
 理解してください。

 でも、
 コロナ感染症になると
 重症になる?場合によっては死ぬこともある?
 と言われてるからまた不安になりますよね。

 コロナにかかっても
 重症者になる方が多かったのはなぜ?
 本当にみんな重症化してるの?
 これについて
 次回考えてみましょう。

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ゆず湯の洗礼

 入院していた時
 日常生活通りのことができる時に
 とてもしあわせな気持ちになりました。
 僕が楽しみにしていたのは
 お風呂に入った時間でした。

 入院したばかりで
 まだ安静状態にあった入院4日目の夕方
 看護師さんが部屋に来られて
 「からだを洗いましょう」と言われて
 「エ?まだからだも動かせませんよ」と答えると
 「大丈夫ですよ」、微笑みながら
 洗面器にお湯を入れて
 そしてその中にゆずを浮かべ
 香りのいい温かいお湯をたっぷり使って、
 しばらく洗ってなかった体を
 洗ってくれました。

 お湯の温かさと
 ゆずのさっぱりとした香りで
 からだが目覚める感覚になりました。
 そして
 看護師さんの手のぬくもりで
 心までもぬくぬくして
 入院していることを忘れるぐらい
 心からリフレッシュできたのを今でも覚えています。

 病院には
 入院患者にも
 お風呂に入る時間があり
 その後急性病院では
 週2回シャワーの時間がありました。
 そして
 回復期の病院では
 家のお風呂のように
 湯船につかることもできました。

 からだが温まると
 硬くなっていたかもしれない
 心も柔らかくなり
 つらい環境にあっても
 癒やしてくれることを実感しました。

 入院してても
 日常にあった生活を
 させてくれる病院の計らいには
 本当に感謝です。

 今も憶えてます
 ゆずの香りの清拭の瞬間のこと。
 
 倒れた後、最初に実感した
 生きている喜びでした
 そして
 今まで経験したことの無い感覚をあじわったゆず風呂。
 大げさないい方かもしれませんが
 赤ちゃんが最初にお風呂に入るのと同じように
 新しい人生スタートを祝う
 洗礼だった気もしているのです。
 
 ゆず湯は
 からだの垢を落としてくれただけでなく
 僕のこころに貯まっていた垢も
 洗い流してくれたのかもしれません。

 お風呂で救われた入院生活。
 日本人に生まれてよかったです。

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神も仏もいないのか?

よく人は
 自分の思い通りにならないことや
 苦しむ状況になると
 「神も仏もありはしない」と言う台詞が
 思わず口から出てしまうことがあります。

 人は
 いいことも、悪いことも
 自分に起こっていることは
 何らかの自分以外の力が働いて起きていると
 考えているから
 苦しいときに
 こんな台詞が
 思わず口から出てしまうのかもしれません。

 自分が生きているこの人生は
 自分だけの人生だし
 人生の主人公は自分です。
 だから、今起きていることは
 昨日までの自分の行動の積み重ねの
 結果なんです。

 
 病気になったり
 何か苦しいことに出会ったときでも
 決して
 神も仏のせいではないんですね。

 なら
 神様も仏もいないのでしょうか?
 
 実は、僕は 入院中いつも
 自分を守って、応援してくれている
 存在?力?を感じることがありました。

 病気になったのは
 自分の昨日までの行いの結果であり
 それに気づかそうとして
 僕は病気になったのかもしれない。
 でも
 動かなかった左手も、左足も
 「こうなったのは、おまえのせいだから」とは
 僕にもっと苦難を与えようとは
 決してしません。
 
 なぜなら
 服を着替えようとするとき
 必死でボタンをかけようとする右手を手伝おうと
 無意識に右手の手伝いをしようとする動かない左手。
 「今日もリハビリお疲れ様。夜はゆっくりして
 また明日は、がんばって左足を動かしてみよう」と
 語りかけていると
 翌日は、指がそして足も昨日より動くんです。

 僕は
 からだのメッセージを受け取らずに
 結果として病気になったのかもしれない。
 だけど
 からだは、そんな僕を恨んだりしない。
 逆に、元に戻れるように応援してくれました。

 僕のからだの中には
 僕がどんな時でも
 僕の力になってくれる存在を感じました。

 この力、存在を人は
 奇跡、神の力と言うのかもしれませんが
 僕のからだにも、あなたのからだにも
 あなたをどんな時にも守ってくれている存在がいるんです。
 それを、人は神と呼んでるのかもしれません。

 神様は
 どんな人にも
 どんなに苦しい時でも
 あなたの中にいる力、存在なのだと思います。

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妻の誕生日

昨日は、妻の誕生日。

妻が生まれて
僕と出会い、結婚し
娘が生まれ
そして今がある。

妻が今まで歩いてきた道
これから
共に歩く道。
しあわせを感じる道を
3人で歩き続けられるよう
少しでも迷惑をかけないように
頑張らないと
気が引き締まる日になりました。

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僕が今ブログを綴っている理由?

 脳出血による左半身麻痺が
 僕の入院した時の病名

 その回復のため
 まずは脳出血の治療
 その後は
 左手、左足のリハビリを行い
 生き続けている
 自分がここにいる。

 立てなかった自分が
 今はひとりで、ゆっくりだが
 マイペースで動けるまで回復した。
 全く動かなかった左手も
 今、こうしてパソコンを打てることができるまで
 機能回復した。

 これも
 入院した病院での
 医師、看護師、リハビリ師をはじめ
 食事を作ってくれた方、社会復帰がスムーズに進むように
 段取りをして下さったスタッフの方々など
 大勢の方々の計らいのたまものであると
 いつも感謝している。

 でも、実はもうひとり?
 ひとりかどうかはわからないが
 ある存在にも感謝している。

 実は
 全く機能しない左手、左足だったけど
 入院している間
 全く痛みを感じることがなく
 不自由さはあったが、苦痛はほぼなかった。

 救急で運ばれたときですら
 脳出血を起こしているにもかかわらず
 頭痛などの自覚症状も全くありませんでした。

 リハビリ中も
 先生は筋肉痛が必ず来ますから
 痛くてもリハビリができるように
 鎮痛剤を出すので
 遠慮無く言って下さいと言われたけど
 動けないほどの痛みもなく
 幸い
 医師の鎮痛剤のお世話になることもなかった。

 鎮痛剤使う、使わないだけでなく
 3ヶ月に及ぶリハビリ生活でも
 毎日、筋肉痛がないかどうか確認され
 自身の負荷に対する抵抗力も
 知っていた方がいいのでってことで
 運動負荷を意識的にかけられたけど
 全く筋肉痛すら来ずに
 翌日、担当のリハビリ師さんに
 筋肉痛がないことを伝えると
 ちょっと残念そうにも見える表情されながら
 「筋肉痛が、でないことは、まだまだできるってこと
  なのでいいことなんですけど」
 とはなされ
 「もう、年だから、明日とか明後日とか
  しばらくしてでるかも」
 と笑ってこたえてたけど、
 結局筋肉痛はでないまま退院しました。

 このように
 麻痺がある以外
 全く苦痛のないリハビリ生活でした。

 退院して
 元東京大学医学部名誉教授で、著名な免疫学者で
 あられた多田富雄先生の脳梗塞でのリハビリ生活を
 振り返られた著書を読ませていただきました。
 先生は、僕と同様の半身麻痺に加え
 構音障害、呼吸困難などの症状もあったので
 しゃべれない苦痛、食べようとしたときの困難
 そして左手、足の痛みの苦しみを綴られていた。

 痛みがあるかないかだけで
 本当に
 毎日の毎日の生活も
 苦しみもちがってくるんだと
 先生の著書を読んで知りました。

 同じような病気でも
 その経過はさまざまだと
 言うことも知りました。

 その差って、なぜ生まれるのか?
 それは
 麻痺以外に症状のなかった自分にも
 麻痺以外の症状があった多田先生にも
 病気になった後の使命があったのだと思います。

 多田先生、病気になった後
 リハビリの大切さを患者側に立ち
 訴えられる活動をされました。
 それが、使命なんだと思います。

 それなら、僕には
 なぜ、病気になったのか?
 それは、病気の立場で考える
 病気が訴えることを
 逃げることなく、素直に受け止められるように
 病気だったことを恨むことなく
 病気と向き合うためだったのかも
 しれないなぁと思ってます。

 つまり
 学びやすいように
 向き合えるように
 苦痛がなるべく案じないように
 僕の使命を果たせるように
 目に見えないけど
 見守ってくれていた存在を感じるのです。

 だから
 僕には病気の、からだからの
 メッセージを伝える使命がある。
 病気をして感じたことを
 ひとりでも多くのかたに 
 伝えることだと思って
 今日もブログを綴っています。

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