「今日の言葉」カテゴリーアーカイブ
「自分だけが」でいきてはいけない
「自分だけが」「自分さえよければ」
というのは、自然の法則に反した生き方です。
自然に逆らって生きると
ろくなことがおこらないのも
自然の法則。
世の中の進化や向上のため
人様の幸せのために
やるべきことをやる。
そんな心がけて
生きていると
天はきっと味方してくれるでしょう。
日本には「宗教」という概念はなかった
「宗教」という言葉は
幕末に「Religion」の翻訳後として
つくられた言葉だと言われています。
それまでは宗教という言葉はなく
仏教であれば「宗門」「宗派」
神道であれば「かんながらの道」と
読んでいたのです。
ヨーロッパなどの外国の宗教は
イエス、マホメット等の開祖が伝える教えを
総じていうものなのです。
ですから、宗教は「教え」でもありますが
それに対して
日本人の日本固有の宗教に対しては
教本などはなく
教えと言うよりも
より良く生きるための「道」を
示してます。
この点が西洋の「宗教」とは
大きく異なる点です。
西洋の宗教では
特定の神を信じ
その教えに従うことで救済を得ると考え
日本では
「神になるための道」として存在し
そのために仏教や儒教、さらにはキリスト教がある。
もっと言えば
日本人は、いい教えであれば
どんなものでも学ぼうとする
柔軟性を持っているのです。
ですから
クリスマスもお祝いし、
お盆やお彼岸ではお寺に行き
節分には豆まきをするのです。
恋愛は覚悟をもって
最近、芸能人などのニュースで
大きく取り上げられるもののひとつに
「不倫」があります。
不倫が疑われると
男も女も関係なく
全てが悪いような徹底的に叩かれます。
不倫はいいことではないけど
添い遂げるに超したことはないけど
長い人生、それはなかなか難しいので
昔から日本にはお妾さんという
存在があり
渾然と認められ
落語「権助提灯」では
本妻とお妾さんの話しがあります。
現代では
この落語で笑っただけでも
疑いの目を向けられそうです。
現代の恋愛事情を考えると
恋愛は基本的に「一人しか選べない」大事業です。
ということは
恋愛するには、大きな覚悟が必要になるということ。
「スペア」をもっておくなど
もってのほか。
一度しくじってしまったら
全てを失ったかのように
精神的落ち込みは大きいものです。
でも、
それだけの大きな覚悟をもって望んだ恋愛は
絶対豊かな人生経験になり
その後の人生に役立つはずです。
そして、その経験は
恋愛のみならず、仕事や事業などと向き合う時に
問われる「人間力」につながっていくことでしょう。
ノアの箱舟
いつ止むかもわからない
雨が続き
謎の感染症が蔓延し
人々は
息を殺し、
ただただじっと
雨が止み
感染症が治まり
真夏の日差しいっぱいにあふれ
街には
人々の明るい笑い声、笑顔にあふれる日が
来ることを願って
耐える日々を過ごしていた。
でも、全く
雨は止まず
感染は広がり、更に猛威をふるい
人々の心の中では
どんどん不安がまし
その心を解消するためなのか
あちこちで
争いごとが起こり始めた。
そんな荒れた世界。
僕は
ひとりの老人と出会った。
その老人は
「早く、舟に乗りなさい。
地球は嘆いています。
この世を変えないといけない
ことを決意したのです。
今までの世の中は、まちがいだった
ことに気づき
世界を変えようとしています。
あなた方に
次の世界を作るために
選ばれたのです。
もう、元の世界には戻れません。
戻ってはいけないことを
戻ることを地球は望んでいないこと。
今までの過ちを気づいたものが
新しい世界を作っていかなければ
いけないのです。
さぁ、早く乗りなさい」
僕は
突然会った老人に
背中を押されて船に乗り込みました。
乗った途端
船の扉が閉まり、船は出発しました。
出発したと同時に
船内に取り付けてあった
モニターの画面が
外の世界を映し出しました。
東京、ニューヨーク、ロンドンと
思われるような都市が映し出されました。
そこには
以前のように
食事を楽しんだり、ショッピングしたり
楽しむ人々の姿でした。
どこかなつかしく、うらやましくもある
人々の生活。
しかし
その後、人々の様子が変わりました。
叫び声を上げながら
一目散に逃げ出したのです。
そこに現れたのは
荒れた川の姿でした。
世界の都市の姿は全てが
荒れた川の場面になりました。
船中は
嘆く声であふれかえりました。
僕も
涙があふれ出し
人目も気にせず
これまでないくらい慟哭していたのでした。
その時
僕はいつもの起きる時間で
いつものようにベットの上でした。
今観たのは夢だったのでしょう。
でも
その夢はあまりにもリアルで
今までの生活、世界に戻れない
戻ってはいけない
新しい価値観の世界に
変えないといけない
それが今生きている僕たちの使命ではないでしょうか?
このままでは
人類は
二度目のノアの箱舟を経験する
ことになるかもしれません。
元の生活に戻るだけではなく
新しい価値観の世界を
模索していきましょう。
もともと”ひとりぼっち”(8/22、8/23は臨時休診)
コロナ感染が残したものの一つに
オンライン診療のように
直接、人と会うこと
肌と肌を触れ合う機会を
少なくなってしまいました。
人間は
社会性の動物と言われるように
ひとりでは生きていけない動物。
だからなのか
「ひとりはさみしい」という科白が
耳につきます。
でも人はわがままな面もあります。
ひとりじゃないと満足かというと
感性の異なる人と過ごすと募るつらさ
誰かと一緒にいても
なぜかさびしさを感じることもあります。
人といるのに
感じるさみしさは
ひとりでいる時より
ずっとさみしいこともあります。
さみしさを感じる根本は
人といるからというものではない
と思うのです。
人はひとりで生まれてきて
ひとりで死んでいきます。
元々
人間はひとりぼっちなのが
当たり前なのです。
ひとりでは学べないことを学ぶために
この世に生きてきたからこそ
友人や仲間そして家族さえ
必要なのです。
もともとひとりぼっちで
生きてきたのに
さみしさを感じるのは
原因は人がいるいないに
左右されるわけではなく
別のことをこころが感じているのが
原因にほかならないのです。
さみしさを感じるのも
この世に生まれてきた
目的のひとつのような気がするのです。
すなわち
人間は生きている限り
孤独とも向き合わないといけないという
ことではないでしょうか?
一緒にいて楽しく食事をするのは
そんな時間をすごすのは
さみしさのなかから
独り立ちをするために
必要な過程では
ないでしょうか?
自分のこころを
紛らわすために人と過ごすのではなく
人と過ごすことで
自分とのちがいを感じ
自分の心の根本で求めてることを感じ
生きていくことを学ぶのでは
ないでしょうか?
今の時代は
みんなが
自分の心と向き合う時間を
地球が、コロナウイルスが
そしてもしかして神様から
いただいた機会かもしれません。
「誇り」はウソをつかないための力のひとつ(8/22、8/23は臨時休診)
人はウソはつきたくないもの。
誰もがウソをつかないで生きていこうと思っている。
それは、ウソをついてしまうことで
自分のこころの中にある「誇り」を
傷つけることになるからだと思うのです。
「誇り」をもっているのは
なにも、おとなだけではなく
こどもだってもっているのです。
こどもは「誇り」の塊の様なもので
「誇り」は人間の本質のような所もあるけど
ウソをつくことで
「誇り」が傷つき始め
ウソをつき誇りがほころびだすと
そのほころびはどんどん大きくなります。
「誇り」が小さくなって
ただほころびが大きくなってしまうと
ウソをつくまいと頑張ることもしなくなり
おとなの世界でよく見かける
そのウソを第三者が突き止めて取り消させる様になるのです。
こどもたちには
生来もっている「誇り」の塊を
失わないように
大きくなって欲しいと願うのです。
「君は僕のスターだ」(8/22、8/23は臨時休診)
これは、映画「父と僕の終わらない歌」が
認知症の進んだ父が息子にこう言って
愛おしそうに頬をなでるシーンで出た言葉。
父も
年取って、生きるのが精一杯なのか
晩年は認知症がでていたので
きつい表情をして
無理難題を吹き込むことがあった。
その時僕は、何とか我に返って欲しいと
きつい言葉を吐いてしまうこともあった。
そんな父の豹変ぶりに戸惑ったものです。
でも
それがいつもではなく
ある時には
懐かしい句感じる
すごい優しい笑顔で迎えてくれることもある。
その時、父は何を見ているのだろう?
と思うことが多々ある。
この映画で
認知症の父が
息子に「君がスターだ」と言っている時の
息子の姿は
あどけない少年の姿だった。
あ、そうか
父は僕をいつも可愛い息子のままでいて欲しいと
思ってるんだ。
僕が還暦を迎えても
「僕のスターだ」と思っていることを知った。
時を超えたお盆(本日も通常通り診療中です)
半藤一利氏の最後の著書
「戦争というもの」を読みました。
その時僕は
戦争が始まる当時に
いました。
戦争に突入し
連戦連勝のニュースに沸き返る人々
でも実際は
先行き不安だらけの日本の状態で
あると言うことに気づかず
報道を信じて。勝つと信じ
生きていたのです。
そして
8月15日の
田辺聖子さんの日記に触れ
「何事ぞ!」と
突然の敗戦の事実を知り
驚愕したと書かれており
まさに本を通して
戦争体験。
偶然にも半世紀前の
日本の状況を
偶々手にした著作から
知ることなり
当時、人々が自粛を強いられながらも
いつになったら
元の自由な生活に戻れることを
望んでいたのだと
どこか現代にも通じる
感覚をを覚えました。
まさに
戦時中も今も
人々の気持ちは
元の自由な気持ちになりたいという
気持ちを持ってるのは同じだ
と言うことを感じました。
そして
その日みた映画
「ナミア雑貨店の奇蹟」
いまだした手紙が32年前から
返事が来るという
時空を越えて交流するという
映画でした。
時計の上では
現在であっても
過去から送られてきたメッセージを
受けた気がした
ちょっと不思議なお盆を過ごしました。
これも
お盆だから受け取ることができた
これからもしっかり生きよという
ご先祖様からのメッセージだったのでしょうか
終戦の日に戦争について考える(本日も通常通り診療中です)
今日は80年前に戦争が終わった日。
それから80年経ち
戦争を直接経験した人は
年々少なくなっています。
戦争はいけないことだけど
今日本では戦争がないから
戦争は我が国に関係ないことだとして
平和ボケして生きていくことはできません。
なぜなら、世界のどこかで
戦争をしているわけです。
ですから
戦争について目を背けることはできません。
そこで、今日は戦争について
考えてみましょう。
戦争とは
国家の正義を示すためにおこなうもので
国の正義にを踏まえ、戦争は
国際法上3つの場合しか認められません。
一つ目は
国家の生存権が脅かされた時。
(他国に攻め込まれた時)
二つ目は
制裁戦争。
(他国が国際法や条約を破った場合)
三つ目は
集団自衛権。
(平和維持活動や停戦合意の治安維持を
目的とする軍隊の派遣)
これ以外の戦争
例えば「侵略戦争」は国際法上の違法行為なのです。
更に、実際の戦争行為において
戦争は国家行為なので
国際法上、軍服、軍帽を身につけ
銃などの武器を携帯しているなら
撃ち殺してもいいルールになっています。
ですから
たとえ戦争であっても
一般市民を巻き込んで
殺してしまえば、それ犯罪攻撃なのです。
この法は、第二次世界大戦後にできた考えで
先の大戦では
日本は空襲攻撃を受けたり
広島、長崎に原子爆弾が投下されたり
一般市民にも多大な被害を受けたのはご存じの通りです。
先の大戦では
相手をトコトン降参させないと
終結させることはできませんでした。
ですから我が軍の英霊といわれる人は
報復のための虐殺や策略行為に走るのではなく
正々堂々と矛を収めたのです。
だから我々は8/15は
戦争に負けた日敗戦の日というのではなく
戦争をやめることを決断した日「終戦の日」というのです。
父と僕の終わらない歌(お盆期間も診療します)
アルツハイマーの父を
家族でサポートするが
病状は次第に進行し
疲れ果てる家族。
でも
以前と異なる姿を見せることが多くなっても
合間に見せる
昔と変わらない父親の愛にふれ
家族も父を愛し続けていることに気づく家族。
でも
どうしても病気に日々襲われ、悩む日々。
そこで
父親の若い頃からの夢を叶えようと
イベントを企画する。
その企画を
なんとか行うことができたが
その後父親が本当に望んでいたことが
明らかになる。
たとえアルツハイマーになっていても
心の奥には
アルツハイマーになっても変わらない
深い愛の姿が表現されていた映画に涙した。
平均寿命は伸びたけれども
人は老いるもの。
僕の父もそうでした。
劇中で父親役を描いた寺尾聰が父に
そうして
寺尾聰が息子役の松坂桃李が
自分に重なって
父親がそばにいる気がして
涙が自然にあふれてきた映画でした。
