月別アーカイブ: 12月 2021

椿の庭

富司純子さん主演の
「椿の庭」を観てきました。

科白少なめに
美しい音楽と共に
その家に住む住人とともに
最後の時を迎えた
日本家屋の最後を
静かに見つめた映画だった。

住んでいる人にも
死が訪れ
家族の生活も変わってくる。
残り少なくなった人生を生きていくうちに
未来を描けなくなったときに
人は何を考えて行くのか。

その時を静かに迎えた住人を
所作の美しさで
表現した富司純子さんの
いぶし銀の演技に釘付けになった。

この世に生まれてきた全てのものは
日々を過ごし
やがて必ず死してゆく。
誰もが訪れる終焉の時を
むかえるか?

ずっと生き続けられないから
必ずものとの別れはある。
いつまでもものに対して
思いをもっていたいと願うが。
いつの間にか
思いはもの自身場所にあると縛られ
執着して
その場所はそのままでいて欲しいと思う。

この映画の
主人公もそうであり
この家をそのまま大事に使うと約束した人に
売ることになり
安心してその家を送り出すことを決心した。

売り渡す前の晩秋に
孫娘に庭の枯れ葉の掃除を頼むが
孫娘は
「掃除しても、しても枯れ葉はなくならないし
この家ももう売り渡したのに
なぜ掃除しないといけないのか?」と
掃除を拒否する孫娘。

最後の最後の時まで
自分のいのちを育んでくれた家に対して
美しい姿で、感謝して送り出そうという
住人のおばあさんが
一人で何も言わず掃除をはじめる。

僕も
先日住み慣れた家を手放した。
別れの時、涙があふれたが
それはさみしさでなく
感謝のなみだ。
そして、新しい家族を育んでもらいたいという
希望の涙でもあった。

映画の中で
主人公が
「思いは、ものと場所にある・・・」と
しみじみと語るシーンがあったが
形がなくなると
全ての思いは
我がこころにいつまでも残っているから大丈夫と
主人公に語りかけていた。

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誰にもある宇宙の力

シュレディンガー・ハイゼルベルグは
量子論の大家といわれる科学者の多くが
インド哲学の源流である
ヴェーダ哲学の影響を受けた。
特に「凡我一如」をはじめとする
ヴェーダ哲学の原理が
量子論を考える上で役立ったと
述べられています。

ここで「梵我一如」の意味について
考えてみましょう。
「梵」とは
「宇宙を支配する原理」を意味し
「我」は
「個人を支配する原理」のこと。
この「梵」と「我」が
同一であることを知ることで
永遠の至福に達するという考えです。

つまり
自分の中にある宇宙の力
それは決して実際に目で見えることはできなくても
自分の中にある宇宙の力を
感じることができれば
人間が本来持って生まれた力とエネルギーを
発揮できるようになるという
ことなんだと思います。

これを
もっとわかりやすい言葉で言うと
「潜在能力」といえるでしょう。

潜在能力は
まだ自分の中にある
まだ眠ったままの力。
この力を使えば
あなたはもっと大きな力をえることができる
といわれています。

この潜在諒力を
目覚め指すために
あなたのなかにある宇宙の力を
意識し、使えばいいのだと言うことです。
そのことを
証明しようとしているのが
量子物理学者です

そのことを
初めて気づき
「素領域理論」として発表されたのが
湯川秀樹博士です。

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物理学を学ぶのは?

色んな分野の勉強があります。
科学を使って人類は
これまで進化を研げました。

その中で目に見えるものの
目に見えない力を証明するために
物理学は発展し
近年ではめざましい発展をし
目に見えない世界を作り上げています。

医学は物理学と違い
目に見えるものをトコトン証明しようと
目に見えないものを
いまだ排除したままのような気がしますが。
そのために
時に行き詰まってしまうことがあります。

例えば
いのちは死なないというと。
形あるものは
いつかはこわれから。
だから肉体をもって生まれた人間は
誰もが平等に
死の瞬間を迎える。
そこで終わりと人は考えました。

この世に生まれてきたものの
宿命である死。
それで本当に終わりだろうか?

しかし
物理学では
全てのものは
形を変えて存在する世界があることを
教えてくれました。

例えば、水。
水はその時の温度の状態で
液体であったり
固体であったり
そして全く目に見えない気体となる
ことがある。
水が蒸発しても
人々は何も不思議がることはしません。
なぜなら、みんな
物理で習った
保存の法則を知ってるから。

かたちは変わっても
エネルギーの存在は変わらない。
水で証明されているように
人間のからだにもあてはまるはず。
肉体があって存在すときと
肉体がなくなって
魂として存在することがあったとしても
別に不思議ではない。

またものには
作用反作用の法則があるとも
習いましたが
あなたのこころ、思いが
祈りとして相手に
届くことがある
お互いの気持ちが作用しあうことを
作用反作用の法則が証明している

物理という学問がなぜあるを考えると
目に見えないエネルギーだけの
世界のことを学ぶために
僕たちは今を生きて
学んでいるのかもしれないと思うのです。

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ビタミンの日

先日12月12日はビタミンの日でした。
なぜビタミンの日というか?
鈴木梅太郎が世界で初めて
ビタミンB1を見つけた日だからそうです。

鈴木梅太郎という名前をきいてびっくり。
たまたま
とある本で
戦争中に脚気という病気が流行って
その脚気の原因を究明するのに
あの有名な論争がありました。

小説家で軍医であった森鴎外は
感染が原因だと主張。
それに対して
鈴木梅太郎は、栄養不足が原因だと考え
白米を米ぬか付きの食事に変えようとしたが。
森鴎外医師は権力もあり
脚気の原因で栄養不足説は
劣勢でしたが
鈴木梅太郎の栄養説を
地道に唱え、実践し
次第に栄養説を確信する人が増え
ついには
感染説でなかったことを認めたのでした。

そんな歴史的背景があるからかどうかは
わかりませんが
最近では、病気やからだが不調になると
「病気になったのは何か重要な栄養素が
不足しているせいだ」と考え
巷では
様々なサプリが注目されています。

この過食の時代に
そんなに栄養素が不足するでしょうか?

コラーゲンを例に考えてみたいと思います。
コラーゲン不足だと
お肌がカサカサになるので
コラーゲンをとって
赤ちゃんのようにプリプリの肌に
なろうと
がんばってコラーゲンを摂取している
女性は多いとききます。

コラーゲンを食べると
本当に肌がプリプリになるのでしょうか?

食品としてコラーゲンをとると
コラーゲンが
消化管の働きで、バラバラのアミノ酸に分解され
アミノ酸は血液に乗って
全身に散らばって
そこで新しいタンパク質の公正材料になります。
ここで注意しないといけないのは
コラーゲン由来のアミノ酸は
必ずしも体内のコラーゲンの原料と
はならないと言うこと。
皮膚がコラーゲンを作り出したいときは
皮膚の細胞が血液中のアミノ酸を
取り込んで必要諒を合成するだけなんです。

ですから
コラーゲンをたくさんとっても
思ったように肌はプリプリにはなれません。

脚気の原因論争での教訓が
今も生きているのですが
その考えに囚われすぎるのも危険なのだと
言うことを考えさせられた
ビタミンの日の出来事でした。

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病気になってわかったこと

12月は慌ただしい季節ですが
忙しい中
いつも以上に気を引き締めて
雪道を一歩一歩確実に
足下を確認しながら歩くように
一日を過ごしています。
12月は一日一日が
いつも以上に緊張の毎日なんです。

なぜなら
病気が発症したのが
2年前の12月だったからです。
だからいつも以上に
病気になったときの月日を思い出し
生活を振り返ります。

左半身不随の状態で発症し
今は病気発症前のように
過ごしていますが
左手が動かなかったことで
気づかされたことがあります。
左手が動かないことで
できなくなったエピソードを
2つご紹介します。

1つめは寝てるときも腕にしていた
自動巻きの腕時計が止まってしまったこと。
いつも左腕を見て
時間を確認しながら行動してました。
左手の自動巻きの時計が動かなくなったと
言うことは
全く左手を動かしていないという事実。
その事実は、
僕の左手が死んでしまったという事実を
突きつけられたように感じて衝撃しました。

でも、気をとり直して
こんな時こそ神様に手を合わせようと
柏手を打とうとすると
打てないんです。
右手と左手を合わせられないんです。
手を合わせられない。
顔洗うときに両手をしっかり合わせられないので
水をすくえないんです。
自分の思ったように動けなくなった
左手に衝撃を受けました。
これが2つ目のことです

左手が使えないことでわかったこと。
自分のすべきことを
時計に合わせて生きていたということ
時間を身につけたことで
実は
自分の生きている時間を
目にみえる時計の時間に合わせて
生きていたことに気づいたんです。

今は左手は使えるようになって
その時に左手が動かなくなったことの
意味がわかるのです。

それまでのように
時計に合わせるのではなく
からだの時間に合わせるべきだと
自分自身の生きた時間を
過ごしていきなさいということ。

そして
今では柏手を打てるようになりました。
神社で柏手の音を聞きながら
神様のお気持ちに近づけるような
神聖な気持ちになれるようになりました。

病気は
僕を苦しめようとしているのではなく
成長をすることを願っているということに
気がついたんです。

どんな時も
自分のからだに感謝なのです。

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神様はどこにいるか?迷ったら

神様がどこにいらっしゃるか
わからなくなったら
家に帰って
親にこころを合わせればいい。

親は
あなたにとって
神様のような存在なんです。

ただ愛の身で
今日まであなたを育ててきている
じゃないですか?

親を喜ばせたことは
ありますか?
親をも喜ばせないようだったら
親を喜ばせるという
人として当たり前のことさえできない人に
他人を喜ばせたり、助けたりできますか?

どんな世の中になっても
変わらないものは
こどもを思う親の愛です。
この当たり前のことを
忘れてしま世の中になってしまったら
争いが起こるのです。

神の愛を求めようロするものは
大きな河にだけ
水が流れていると思って
大きな河ばかりに目がいって
足下の、自分を生かしてくれる河には
意識しないという過ちを
冒しがちです。

今立っている
足下にこそ尽きることのない
あなたの命を守ってくれる
地下水があることを
知らないといけない。

神様はあなたのすぐ側にいらっしゃるのです。
親の尽きない愛情と同じように
あなたに惜しみない愛を
いつも送っているのです。

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少し早いですが
この一年どんな一年でしたか?
多くの方が
コロナ感染が収まらない中
様々な困難に直面し乗り切ったという方も
多いことでしょう。

そんな困難な時代であっても
しあわせを感じた人も
いらっしゃるかもしれません。

人のしあわせは
暮らしている国の政治・経済状態、疾病率などに
左右されるとも思われがちですが
最近の研究で
しあわせ遺伝子が人にはあって
その遺伝子が発現している方が
しあわせを感じて暮らしていることが
ブルガリと香港の大学の共同研究で
発表されました。

そして
この遺伝子を発現して
しあわせ度をあげる要因は
取り巻く環境ではありません。
遺伝子がその人の性格に関与していることもわかったのです。
遺伝子は人の性格、考え方にも影響します。
例えば
ドーパミンD4受容体の遺伝子の発現が多いほど
好奇心が強いことがわかっています。
しあわせ遺伝子の発現が
しあわせとどのように感じるかに
大きく影響しているのです。

しかし
このしあわせ遺伝子を発現していなくても
しあわせ度が
こころの持ちようであると
アップするということがわかったのです。
こころの持ちようは
あなたの行動によって
変わってきます。

すなわち
しあわせ度がアップする行動とは
①人に優しくすること②走ること③ボランティア
④瞑想⑤笑顔でいること⑥感謝日記をつけるなど
どれもこころの中が楽しく明るくなることばかり。

つまり
まわりがどのような状況であっても
ご自身のこころの中が
明るくあれば、しあわせなんです。

しあわせは
外界におこるものではなく
自分の内面におこるものなの。

コロナの状況であっても
あなたをしあわせにしてくれるのは
あなた自身のこころのあり方なのです。

今こうして過ごせていることに
感謝した気持ちをもって
一日を迎え、過ごす。その積み重ねが
いい人生を送れる方法なんでしょうね。

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病気もプレゼント

病気が治って
今こうして元気に仕事もでき
ブログを通して
みなさんに自分の考えをお伝えできることを
とても有り難く思い
病気というプレゼントを
神様からいただいたと思って
今は毎日過ごしています。

今元気だから言えることかもしれませんが
病気について
治ることばかりに焦点を当てるのではなく
病気から
何を学び、その後どう成長していくかが
大切ではないかと思っています。

病気から学べるように
人のからだには
治癒力が備わっていて
その治癒力はそのひとの生き方に
大きく関わっています。

僕たちは
元来健康で無垢な存在として
この世に生を受けました。
そして
この世で生きることの喜びを
体験することが目的でもあります。

でも
生きているうちに
多くのかたがそのことを忘れてしまって
健康や喜びから遠ざかった生き方を
自ら選んで過ごしているような
なってしまったのかもしれません。
その結果栄養不足に陥り
からだに毒素がたまってしまうことにもなります。
それが
不健全な感情を持ち続けることの
原因になっているかもしれません。

「エピジェネックス」という
新しい生物学の一分野があります。
これは
遺伝子型が発言されるには
遺伝子の配列によるだけではなく
環境要因に左右されているのではないかという
考え方です。

つまり
「遺伝子が、私たちの運命を決めるのではなく
私たちを取り巻く環境が
私たちの細胞の働きを大きく左右している」
ということです。
ということは
健康は、自分の抱く感情により
大きく左右される可能性があると言うことが
科学的に証明されてきているのです。

つまり
どんなものを食べているか
どんな治療を受けているかが大事なのではなく
あなたが
どんな考え方で生きていて
日々どんな感情を抱き
どのように生きたいと思ってることが
あなた自身の細胞の働きに
左右しているということです。

今から
あなたがどう生きたいかを
教えてくれているのが
病気からのメッセージ、プレゼントなんですね。

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セロ弾きのゴーシュ

宮沢賢治作の童話
「セロ弾きのゴーシュ」を読んだ。

2年前アフガニスタンのジェララバードでの
銃弾に倒れられた医師中村哲先生の
著書に自分がアフガニスタンで働けたのは
セロ弾きのゴーシュに近いものが
ありますと語られていたので
改めて読んでみた。
幼いときに読んだかもしれないが
その時には感じられないぐらいの
衝撃をうけた。

あらすじは
セロ弾きのゴーシュは
演奏会を前に
楽団長からもっと練習するように言われ
家に帰って
必死で練習をはじめる。
練習をはじめると、予期せぬ来客
まさに招かざる客が次々訪れる。

猫やカッコウ
そして病気をした野ねずみの親子。
ゴーシュは練習を邪魔されていると感じながら
傍から見てもその感情を露わにして
招かざる客の対応をした。

そして、迎えた本番は大成功。
鳴り止まない拍手に応えるため
アンコールの瞬間。
なぜか、あの厳しかった楽団長が
ゴーシュに一曲弾いてくるよう舞台に立たせた。
ゴーシュは
猫の前でやけになって弾いた曲を
もっとこころ荒げた気持ちを
楽団長、いやこの曲を聴いている全員に
ぶつけるように弾いた。

弾き終わった後
こんな風に荒立った気持ちで弾いたことを恥じて
楽屋に戻ると
客席は大喝采、楽団長をはじめ楽団員も
「よくここまで弾けるようになったなぁ。
がんばったなぁ」と絶賛された。

その瞬間
ゴーシュは気づくのです
猫も、カッコウも、野ねずみの親子も
そして僕の演奏を影ながら聴いていた動物たちの
うまくなってもらいたいという思いに。
僕は、この話を今読んで。
人生は、神様からのプレゼントを
たくさんいただいているのだ。
なぜ、こんなことが起こるのか
こんなことするために生まれてきたんじゃない
と思っても
実はそんな時に出会った人に対しても
出来事に対して
邪険に扱わず、一生懸命に対峙しなさいと
教えてくれたのです。

今を一生懸命生きることが大事。
なぜなら、それは全て神様からのプレゼントだから。

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為合一(しあわせ)

ことばは時代と共に
変わってくると言われます。
昔の言い方を知れば
言葉の
真の意味に触れることに
なるかもしれません。

たとえば
今日の表題の
為合一と書いて
しあわせと奈良時代の人は
書いていたようです。

つまり
天がなすことに合わせて(受け入れて)
生きることが、すなわち
しあわせな人生だと
奈良時代の人々は考えて
この字をしあわせと読ませたのです。

つまり
奈良時代の人は
全てのことを
神様にゆだねて
無心で今を過ごすことが
しあわせだということでしょう。

現代人の我々でも
今、頭に浮かんだ直観で
行動した方がよいことが
あることも経験します。

自分の進むべき道を
自分の直観を信じて
これが我の進むべき道だと
受け入れ進むこ時があります。

この瞬間
自分の気持ちを
自分に、いえまさに神に委ねた
瞬間なのかもしれません。

神に委ねるって
何でも神任せではなく
嫌々やることではなく
自ら進んで
神に委ねる道を選ぶ生き方です。

ちょっと
神という言葉が出たり
委ねるなど
ちょっとひいてしまいそうな
ワードも出てきましたが
つまり
「あるがままに生きること」とも言えるでしょう。

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