「真実の医療」カテゴリーアーカイブ
みんな頑張ってる
ある日の診察室でのこと。
次の患者さんは
インフルエンザワクチン接種。
患者さんをお呼びする前に
問診票をチェックしようとすると
問診票と一緒に
こどもの大きな文字が飛び込んできた。
そこには
「がんばる」と大きく
注射器の絵と共に書かれていた。
その字から
その患者さんの気持ちが
あふれ出ていた。
「あばれない
なかない
にげない」と
綴られていた。
その患者さんの名前をみて
思い出しました。
1回目のワクチン接種の時
大暴れして
みんなで説得しながら
接種した患者さんだった。
怖くて
怖くて
抵抗したその気持ちはよくわかったが
病気にかからないために
インフルエンザになって
悲しい気持ちにならないためにも
願いと思いを込めて
お母さんも
スタッフもそして接種する僕も
必死で打った患者さんだった。
接種した後は
患者さんも、お母さんも
スタッフも僕も力尽きた。
その気持ちを
その子はわかってくれてたのだ。
でも、怖い、痛い・・・不安が募るばかり
でも、頑張らないと、がんばるために
がんばりますと
宣言してくれたので。
その子の気持ちが
痛いほど伝わってきた。
その子の思いに応えるために
その子の健康を願って
こころを込めて接種した。
その時
患者さんは
お母さんにつかまって
お母さんの力も借りて
ピクリとも動かずに
頑張ってくれた。
終わった後
振り返ったとき
目からは涙があふれていたが
笑顔で返っていかれました。
赤ちゃんから
お年寄りまで
老若男女、様々な方に
予防接種をしていますが
怖いのはこどもだけじゃありません。
おとなだって
頑張って、みんなドキドキこころ震わせながら
接種しているのが
接種している僕にも伝わってきます。
そんな頑張りに応えられるように
病気で悲しむことのないことを願って
接種しています。
その笑顔で
ずっと、ずっといてもらいたいから。
ミスマルクス
「ミスマルクス」という映画を観た。
18世紀の代表的な社会主義学者で
著作「資本論」で有名な
カール・マルクスの三女エリノア・マルクスの
伝記映画である。
父は有名だが
彼女についてはほとんど記録がないが
父親の政治活動を引き継ぎ
「資本論」の英国刊行に奔走し
労働条件の改善、児童労働の禁止
女性平等実現のための社会活動を行った。
私生活では
自由に憧れ、手に入れようと
父親と異なり
自由に生きる芸術家エイヴリングとの事実婚を
選んでしまう。
彼は旅を好み、美食家な芸術家であったが
自由すぎる上の軽さがあり
全てに対して
後先考えずに、自由のために振る舞うので
エリノアの財産も食い尽くし
女性問題で
常にエリノアを悩ます。
しかし
彼を愛しているがゆえなのか
自由に生きる彼にひかれたのか
彼に尽くしたエリノア。
そして
43歳に自殺してしまう。
原因は不明だが
自由に対する憧れと現実とのギャップに
苦しんでいたのが原因だった気がする。
映画を見終わって
彼女が生きた19世紀後半に比べて
現代は何か変わったのだろうか?
コロナ禍の中
様々な労働問題があり
女性問題、多様性の問題
悩むこども達も年々増えてきている。
月日が経って
世の中は変わりましたか?
よくなっていますか?
自由を楽しめてますか?と
映画を見終わった後
主人公ミス・マルクスに
ずっと問いかけ続けらる気がした。
人生の目的
僕たちは
なぜ今ここにいるのか?
なぜ生まれてきたのか?
今ここにいる理由がわかれば
もっと生きやすくなるのではないかと
いつも考えている。
が、
考えても、考えても
明らかな理由はでてこない。
そんな時
リーディングで有名な
エドガーケイシーは
生まれてきた理由について
こう語っています。
「我々は、宇宙の高い摂理に導かれて
自らの霊的成長を実現する上で
もっとも相応しい環境と肉体を選んで
この世に生まれてきた。
そして、その目的は
この人生を最大限に活かして
自分自身の本体である魂を成長させ
同時に社会貢献することにあります。」と。
ですから
経済的、社会的成功が目的ではなく
魂の成長をめざした生き方が
しあわせな生き方ということなのです。
僕達は
確かに志し携え
この世に生まれきた。
でも、肉体をもち
様々な経験をするうちに
大切な志しを忘れ
快楽や物欲に酔いしれてしまっていないだろうか?
でも、持って生まれた志しってなんでしょう?
どうやって確認すればいいのでしょうか?
これでいいのか?と思ったときに
自分自身に
こう問いかけてみて下さい。
「今生まれ変わってでも実現したい目標は?」と
その時に、自分のこころの中に浮かんだことがあります。
浮かんだときに
そんなだいそれたことを・・・なんて思って
否定しないで下さい。
あなたが生まれてきた目的は
その心の声なんだと思います。
僕は、苦しみの中にあるときに
「なぜ、今ここにいるのか?」と問いかけます。
最初は小さなこころの声でしたが
今では、はっきり確信してます。
「愛の気持ちをもって
真実の道を人々と歩むこと」なんだと。
みなさんも
こころに問いかけてみて下さい。
みなさんがもっている愛の気持ちをもって
共に目的を果たしていきましょう。
その先には・・・・・必ず実現します。
なぜ人は迷信に走ってしまうのか?
人は病気になりたくないし
病気にならないために
どのように生きていった方がいいかを
日々考えて生きていると言っても
過言はないと思います。
だからなのか
世の中には
色んな健康法があふれています。
その中には
医者という立場から見ても
なるほどっと考えさせられるものも
確かにあります。
しかし
「そんなこと・・・」なんて
思う医学の点から見ても疑いたくなる
情報や治療法が多くあるのは事実。
そして
医学的治療を受ける人ばかりでなく
現代科学では説明できない
呪術的思考が強くなる方も
いらっしゃいます。
戦時中にも
「金魚を拝んでると爆弾がよけてく落ちる」
「朝らっきょうを食べると弾丸に当たらない」など
いわゆる迷信がまことしやかに囁かれ
実行されている方もいらしたとか。
アメリカ軍による空襲は
一般人にとって防ぎようもないものだから
迷信でもすがりたくなるのも
理解できます。
このことが
戦時下でない現代では
健康に対して
自分ではどうしようもない
不安や緊張感から
病気から逃れようと
いわゆる民間療法や新興宗教に
はまってしまうのでしょう。
どんな医療を受けるかは
ひとりひとりが選ぶことができます。
だから、民間療法や新興宗教が
個人の利益の範疇であれば
まわりがとやかく言うことはないのかもしれません。
そこにあるものをよく考えると
この奥に潜むのは
今の医療に対する不信感なんです、
だから
僕が行っている医療は
目の前の患者さんにとって
一番しあわせになれる治療を
全力で行っていると信じてもらえるように
心を込めて診療を
そして診療だけでなく
生き方などいってることがわかってもらえるように
精一杯生きることなんでしょうね。
自分のやってることに自信を持ち
少しも恥じることのない生き方を
していきます。
自分の正直な道が
みなさんの平和にもつながることを信じて
今日も生きていきます。
いつも見守ってくれている方の共通点とは
人はひとりでは生きていけません。
人と人に支えられているから
今こうして生きていけるのだと
感じることがあります。
多くの人と出会ったおかげで
今があるのだけれど
その中でも
突然目の前に現れて
どうしてそんなに
気にかけてくれるのか
わからないほど
親のように親切に接してくれる
人っていないですか?
僕には
不思議なご縁を感じる方が
3人います。
ひとりは
とある神社の宮司さん。
その宮司さんは
僕が病気をしたときはもちろん
ナチュラルメディカルセンターを開院したときも
僕自身のことだけでなく
こどもの進路で迷ったときにも
さりげなく現れ
的確なご助言をくれて
困難な時を乗り越えることが
できました。
後の二人は
僕を今の勉強をするようになった
きっかけを作った
その勉強会のトップの方です。
トップの代表で
僕はその勉強会は
病気になって以来やめているにもかかわらず
山口に来たら声をかけてくれます。
先日は
娘に
「天行健」という
素晴らしい言葉をいただきました。
もう一人の方は
すでになくなられているのですが
哲学的な組織を作られ
機会があるごとに
書物などで、その思いを受け取っているかたです。
この3人の方。
僕にとって雲の上のような人なのに
どうして・・・と思うばかり。
なにか魂胆がある?
と疑いたくもなるのですが
深く考えずに有り難く
ご厚意を受けています。
そして
本当にこの御3人方とは
ご縁がある。
それも、きっと現世だけでなく
過去においても
ご縁があった方なんだと
確信しました。
それは、その
お三方の共通点に気づいたのです。
姓に共通の文字が含まれていたのです。
僕の周りに
3人以外に、その文字を含んだ姓をもっている方は
いないのです。
それも
ご縁を感じる文字なのです。
僕は確信しました。
現世だけでなく
過去から見守ってくれている
不思議なご縁の方って誰にもいるんだ。
それは、名前を見ればわかると。
その方にいただいた
「天行健」という色紙の字を見ていると
その字が、行く道を教えてくれているのでした。
椿の庭
富司純子さん主演の
「椿の庭」を観てきました。
科白少なめに
美しい音楽と共に
その家に住む住人とともに
最後の時を迎えた
日本家屋の最後を
静かに見つめた映画だった。
住んでいる人にも
死が訪れ
家族の生活も変わってくる。
残り少なくなった人生を生きていくうちに
未来を描けなくなったときに
人は何を考えて行くのか。
その時を静かに迎えた住人を
所作の美しさで
表現した富司純子さんの
いぶし銀の演技に釘付けになった。
この世に生まれてきた全てのものは
日々を過ごし
やがて必ず死してゆく。
誰もが訪れる終焉の時を
むかえるか?
ずっと生き続けられないから
必ずものとの別れはある。
いつまでもものに対して
思いをもっていたいと願うが。
いつの間にか
思いはもの自身場所にあると縛られ
執着して
その場所はそのままでいて欲しいと思う。
この映画の
主人公もそうであり
この家をそのまま大事に使うと約束した人に
売ることになり
安心してその家を送り出すことを決心した。
売り渡す前の晩秋に
孫娘に庭の枯れ葉の掃除を頼むが
孫娘は
「掃除しても、しても枯れ葉はなくならないし
この家ももう売り渡したのに
なぜ掃除しないといけないのか?」と
掃除を拒否する孫娘。
最後の最後の時まで
自分のいのちを育んでくれた家に対して
美しい姿で、感謝して送り出そうという
住人のおばあさんが
一人で何も言わず掃除をはじめる。
僕も
先日住み慣れた家を手放した。
別れの時、涙があふれたが
それはさみしさでなく
感謝のなみだ。
そして、新しい家族を育んでもらいたいという
希望の涙でもあった。
映画の中で
主人公が
「思いは、ものと場所にある・・・」と
しみじみと語るシーンがあったが
形がなくなると
全ての思いは
我がこころにいつまでも残っているから大丈夫と
主人公に語りかけていた。
誰にもある宇宙の力
シュレディンガー・ハイゼルベルグは
量子論の大家といわれる科学者の多くが
インド哲学の源流である
ヴェーダ哲学の影響を受けた。
特に「凡我一如」をはじめとする
ヴェーダ哲学の原理が
量子論を考える上で役立ったと
述べられています。
ここで「梵我一如」の意味について
考えてみましょう。
「梵」とは
「宇宙を支配する原理」を意味し
「我」は
「個人を支配する原理」のこと。
この「梵」と「我」が
同一であることを知ることで
永遠の至福に達するという考えです。
つまり
自分の中にある宇宙の力
それは決して実際に目で見えることはできなくても
自分の中にある宇宙の力を
感じることができれば
人間が本来持って生まれた力とエネルギーを
発揮できるようになるという
ことなんだと思います。
これを
もっとわかりやすい言葉で言うと
「潜在能力」といえるでしょう。
潜在能力は
まだ自分の中にある
まだ眠ったままの力。
この力を使えば
あなたはもっと大きな力をえることができる
といわれています。
この潜在諒力を
目覚め指すために
あなたのなかにある宇宙の力を
意識し、使えばいいのだと言うことです。
そのことを
証明しようとしているのが
量子物理学者です
そのことを
初めて気づき
「素領域理論」として発表されたのが
湯川秀樹博士です。
物理学を学ぶのは?
色んな分野の勉強があります。
科学を使って人類は
これまで進化を研げました。
その中で目に見えるものの
目に見えない力を証明するために
物理学は発展し
近年ではめざましい発展をし
目に見えない世界を作り上げています。
医学は物理学と違い
目に見えるものをトコトン証明しようと
目に見えないものを
いまだ排除したままのような気がしますが。
そのために
時に行き詰まってしまうことがあります。
例えば
いのちは死なないというと。
形あるものは
いつかはこわれから。
だから肉体をもって生まれた人間は
誰もが平等に
死の瞬間を迎える。
そこで終わりと人は考えました。
この世に生まれてきたものの
宿命である死。
それで本当に終わりだろうか?
しかし
物理学では
全てのものは
形を変えて存在する世界があることを
教えてくれました。
例えば、水。
水はその時の温度の状態で
液体であったり
固体であったり
そして全く目に見えない気体となる
ことがある。
水が蒸発しても
人々は何も不思議がることはしません。
なぜなら、みんな
物理で習った
保存の法則を知ってるから。
かたちは変わっても
エネルギーの存在は変わらない。
水で証明されているように
人間のからだにもあてはまるはず。
肉体があって存在すときと
肉体がなくなって
魂として存在することがあったとしても
別に不思議ではない。
またものには
作用反作用の法則があるとも
習いましたが
あなたのこころ、思いが
祈りとして相手に
届くことがある
お互いの気持ちが作用しあうことを
作用反作用の法則が証明している
物理という学問がなぜあるを考えると
目に見えないエネルギーだけの
世界のことを学ぶために
僕たちは今を生きて
学んでいるのかもしれないと思うのです。
ビタミンの日
先日12月12日はビタミンの日でした。
なぜビタミンの日というか?
鈴木梅太郎が世界で初めて
ビタミンB1を見つけた日だからそうです。
鈴木梅太郎という名前をきいてびっくり。
たまたま
とある本で
戦争中に脚気という病気が流行って
その脚気の原因を究明するのに
あの有名な論争がありました。
小説家で軍医であった森鴎外は
感染が原因だと主張。
それに対して
鈴木梅太郎は、栄養不足が原因だと考え
白米を米ぬか付きの食事に変えようとしたが。
森鴎外医師は権力もあり
脚気の原因で栄養不足説は
劣勢でしたが
鈴木梅太郎の栄養説を
地道に唱え、実践し
次第に栄養説を確信する人が増え
ついには
感染説でなかったことを認めたのでした。
そんな歴史的背景があるからかどうかは
わかりませんが
最近では、病気やからだが不調になると
「病気になったのは何か重要な栄養素が
不足しているせいだ」と考え
巷では
様々なサプリが注目されています。
この過食の時代に
そんなに栄養素が不足するでしょうか?
コラーゲンを例に考えてみたいと思います。
コラーゲン不足だと
お肌がカサカサになるので
コラーゲンをとって
赤ちゃんのようにプリプリの肌に
なろうと
がんばってコラーゲンを摂取している
女性は多いとききます。
コラーゲンを食べると
本当に肌がプリプリになるのでしょうか?
食品としてコラーゲンをとると
コラーゲンが
消化管の働きで、バラバラのアミノ酸に分解され
アミノ酸は血液に乗って
全身に散らばって
そこで新しいタンパク質の公正材料になります。
ここで注意しないといけないのは
コラーゲン由来のアミノ酸は
必ずしも体内のコラーゲンの原料と
はならないと言うこと。
皮膚がコラーゲンを作り出したいときは
皮膚の細胞が血液中のアミノ酸を
取り込んで必要諒を合成するだけなんです。
ですから
コラーゲンをたくさんとっても
思ったように肌はプリプリにはなれません。
脚気の原因論争での教訓が
今も生きているのですが
その考えに囚われすぎるのも危険なのだと
言うことを考えさせられた
ビタミンの日の出来事でした。
病気になってわかったこと
12月は慌ただしい季節ですが
忙しい中
いつも以上に気を引き締めて
雪道を一歩一歩確実に
足下を確認しながら歩くように
一日を過ごしています。
12月は一日一日が
いつも以上に緊張の毎日なんです。
なぜなら
病気が発症したのが
2年前の12月だったからです。
だからいつも以上に
病気になったときの月日を思い出し
生活を振り返ります。
左半身不随の状態で発症し
今は病気発症前のように
過ごしていますが
左手が動かなかったことで
気づかされたことがあります。
左手が動かないことで
できなくなったエピソードを
2つご紹介します。
1つめは寝てるときも腕にしていた
自動巻きの腕時計が止まってしまったこと。
いつも左腕を見て
時間を確認しながら行動してました。
左手の自動巻きの時計が動かなくなったと
言うことは
全く左手を動かしていないという事実。
その事実は、
僕の左手が死んでしまったという事実を
突きつけられたように感じて衝撃しました。
でも、気をとり直して
こんな時こそ神様に手を合わせようと
柏手を打とうとすると
打てないんです。
右手と左手を合わせられないんです。
手を合わせられない。
顔洗うときに両手をしっかり合わせられないので
水をすくえないんです。
自分の思ったように動けなくなった
左手に衝撃を受けました。
これが2つ目のことです
左手が使えないことでわかったこと。
自分のすべきことを
時計に合わせて生きていたということ
時間を身につけたことで
実は
自分の生きている時間を
目にみえる時計の時間に合わせて
生きていたことに気づいたんです。
今は左手は使えるようになって
その時に左手が動かなくなったことの
意味がわかるのです。
それまでのように
時計に合わせるのではなく
からだの時間に合わせるべきだと
自分自身の生きた時間を
過ごしていきなさいということ。
そして
今では柏手を打てるようになりました。
神社で柏手の音を聞きながら
神様のお気持ちに近づけるような
神聖な気持ちになれるようになりました。
病気は
僕を苦しめようとしているのではなく
成長をすることを願っているということに
気がついたんです。
どんな時も
自分のからだに感謝なのです。
