「真実の医療」カテゴリーアーカイブ
足下の木の葉
その朝
いつものように
氏神様の周りを
竹箒で掃いて
さっぱりした気持ちで
お参りをしていた時の
ことでした。
さっぱりした気持ちで
神様の前で
手を合わせて
ふと足下をみると
足先に黄色い木の葉が
合ったのです。
お参りの前に
はいたばかりなので
こんな目立つ木の葉が
あるはずはない
掃かなかったはずはない・・・と
思って
自分の掃除をしたということを
肯定しようとしてました。
その時
ふと思ったのです。
ここに確かに木の葉があるのです。
もしかしたら
掃いたときにもあったのかもしれない。
その木の葉の存在に気づかず
見ようとせずに
勝手に掃除ができたと
思ってしまったのかもしれない。
掃除完了と
判断したのは自分自身の頭。
つまり
思考だったのです。
実際に
やらないことは
まだ残っていたのに
終了としたのは
自分自身の心。
病気の時も
見落としていることって
多くないだろうか?
原因を頭だけで
考えてないだろうか?
そうしていると
大きな木の葉
つまり大きな原因が
足下にあっても
気づかないんですよね。
頭で見るだけでなく
肉眼の目を
心の目でも素直にとらえることが
大事なことを
足下の木の葉が教えてくれました。
病気の原因は
必ずあるし、示してくれている。
それに気づける生き方を
しなさいということを。
自然法則に従って生きている
梅雨明けすると
雨の心配することなく
安心して朝の散歩を続けています。
僕たちは
天気予報で
梅雨明けしたことを
核心するのですが
朝、歩いてるときに
自然が全く異なるのを
肌で感じます。
まず
空を見上げると
雲が少なく
澄み切った朝焼けの
グラデーションに
思わず足を止めて
空を見上げてしまいます。
吸う空気も
肌に当たる空気も
さらっとして
エネルギーいっぱいの風が
僕のからだを包んでくれます。
そして
耳を澄ますと
梅雨時期に毎晩聞こえていた
カエルの大合唱が聞こえないのです。
変わって
巣立ったツバメのさえずり
そして
暑さでイライラしてるのでしょうか?
お互いを威嚇するような
カラスの鳴き声。
肌で、目で、耳で
自然に気持ちを向けると
確かに
時は流れている。
季が変わった
つまり
梅雨明けしたことを感じます。
そして
感じているのは
人間などの生物だけでなく
自然も生物と同様に
地球全体、いや宇宙全体にある
自然法則を感じているのだと思います。
ニュートンは
リンゴが木から落ちるのを見て
万有引力に気づいたという
有名な話がありますが
僕は
ニュートンのこの話について
最近
この話は万有引力に気づく発想に
結びついたのは
間違いないのでしょうが
リンゴが木から落ちたのは
万有引力の問題だけでなく
リンゴの実が充分熟したので
リンゴ自身の意志によって
木から落ちたのではないでしょうか?
目には見えないけど
リンゴも生きている
生きているものだけでなく
この世に存在する全てのものに
生きている力、意志があるような気がするのです。
地球上に存在する全てのものが
宇宙の法則に従って
この世に存在しているのです。
梅雨が明けたのも
今朝太陽が昇ったのも
今、僕がこうして生きているものも
朝、セミが一斉に鳴きだしたのも
自然の法則に従ってることのあらわれ。
決して、時計、カレンダーをみて
生きているわけではない。
ニュースや科学ではなく
自然を感じて生きる
自然法則に従って生きていることを
忘れてはいけない。
と言うことを
梅雨明けの朝、散歩しながら
感じました。
病がからだと心を操る~メタトロンが教えてくれること~
病気が発症する前は
心の状態が
からだの状態に影響している。
つまり
病気になる前は
心が主人で
からだがこころの指示のもと
動いていた。
それが病気になると
そのからだと心の主従関係が逆転し
だんだん
からだのほうが主人になっていって
こころがからだの指示にしたがうという
立場が逆転してしまうのだ。
先日
受診された高齢の患者さんは
何年ぶりに受診された。
数年前に
からだのしびれ、睡眠障害などの
症状があり
メタトロンも受けられ
1回だけの受診で
その後音沙汰のなかった患者さんだった。
この数年間で
良くなっていたら良かったけど
今飲んでいる薬を処方してくれと
受診された。
お話をきくと
睡眠障害は続いて
最近専門病院で
薬を調整してもらい
睡眠できるようになったが
その病院が少し遠方にあるので
お一人での通院が難しいので
ご家族の付き添いがないと通院ができない。
ご家族も
忙しく、近くの病院で
薬をもらえたら・・・と思って
思い切って当院を受診されたようでした。
今の薬で
眠れるようになったようだけど
今まで通っていた
病院にいけない理由があるようだ
話していると
それは、物理的理由でなく
不信感などの理由で
いけなくなっているようでした。
少しでも
力になれればと思ったが
今飲んでいる薬は
専門医でないと処方も難しく
その処方までの間に
医師の苦労の跡も
薬歴からも感じられ
僕ができること
しないといけないことは
処方をすることではないと
強く感じました。
患者さんは
眠れないという極限の
からだの状態が
こころをも支配し
こころがガチガチに硬くなり
自分を苦しめている。
からだに支配されている
こころを解放させてあげるないと
この苦しみからはずっと続く。
まずは
今の病院の先生に
こころをむけて
患者さんの思いを届けることから
はじめないと思った。
そのための方策を
いくつかお話して
僕ができる薬の処方をして
その日の診療は終わった。
数年ぶりに会ったこの患者さんは
人が変わってしまったようになっていた。
病気になると
こころも、性格も
病気の状態にあるからだに支配され
変わってしまうのだろうか?
この患者さんを診て
こころが先かからだが先かを
見極めることも
からだの支配から
こころを解放するのも
僕の使命だと思った。
物語を語って下さい
目の前の患者さんに対して
最善の治療をするために
我々医師は日々努力していますが
病気の種類も含め
接する患者さんの症状、訴えは
多岐にわたり
医療も進歩する中で
患者さんに常に最高の治療をするためには
医師ひとりの経験だけ
医師ひとりの研究勉強だけでは
十分とは言えません。
そこで
皆の経験した治療法などを
分析して
病気に対する
道標を科学的根拠に基づいて
示したのが
EBM(Evidence-Based Medice)と
いわれるものです。
このEBMのおかげで
どこの病院であっても
医師の自身の経験に左右される治療を
患者さんは
受けられるようになりました。
しかし
最近は、EBMにこだわりすぎ
EBMが標準治療だから
EBMじゃないといけないという
風潮が強くなってきた気がします。
ここで
間違ってはいけないのは
EBMはじゃないといけないわけでは
ないので
EBMに縛られることは
ないのですが・・・
この治療に当てはまるように
治療を進めてしまう
傾向に陥りがちです。
患者さんの病気になった理由、経緯、症状
そして
病気についてどのように考えているのか
どうしたいのかなどの
患者さんの思いは加味されずに
基準とされる血液検査、画像検査などの
結果のみで判断、実施され
目の前の患者さんのことより
データーばかり見ているという
批判につながっているのでは
ないでしょうか?
ナチュラルメディカルセンターでおこなっている
メタトロンでは
みなさんに1時間の時間を作ってもらって
施行しています。
またメタトロン中であっても
特に患者さん自身の行動を規制することも
ないので
メタトロンの結果を含めて
患者さんと様々なお話をします。
毎日どんな生活をしているか
何が心配かなど
ご自身のことだけでなく
ご家族のこと
お仕事のこと、コロナウイルスについてなど
お話の内容は
多岐にわたります。
実は
この1時間のお話は
とても重要なんですね。
この会話から
患者さん自身が抱えている問題
どう生きていきたいか
何を求めていることが
わかることがあります。
そうすると
例えEBMに添った治療をおこなっていても
根本治療とはとはならず
EBM的治療だけでは
根本的治療が難しいことを
感じます。
その様に感じるのは
決して僕だけではなく
最近ナラティブ・ベイスト。メディスン(NBM)も
必要であると訴えられる医師も
増えてきています。
NBMは
患者さんが語る物語から
病気になった理由、症状、考え方などの
患者さん自身が抱える問題を
全人的に把握し
そこから
最善の治療法を考えていこうという考え方が
出てきています。
病気の原因は
患者さんひとりひとりで異なります
ですから
治療法もひとりひとりことなります。
ですから
NBMも加味して
治療をおこなう必要があると思います。
僕は
これからも
患者さんに対して
いつもOPEN HEARTで
患者さんの言葉にいつも耳を傾けられる
医師でいようと思っています。
生きる意味
“生きる意味”について考えてみた。
ある人は、人の役立つこと
ある人は、魂を磨くこと
などなど
みんなそれぞれの考えを持ち
どの考えも正しいと思うし
きっと答えはひとつではないのだと思う。
人間だけが
生きる意味を考え
生きていくことが
“人は考える葦と言われる”所以なのだろう。
そんなことを考えさせられた週末
ある子宮頸癌を患っていた 女性の
最後の手記、最後の言葉を知った。
「 一日一日を丁寧に“暮らす”
ひとつひとつを心を込めて“暮らす”
その積み重ねが“生きる”ということなのだと
強く思いました。」と
頭で考えるだけでは
生きることの意味はわからない。
今この瞬間の人生を生ききることで
“生きる意味”わかるのだと思う。
“今を生ききり”
そして
“この瞬間を生きていること”に感謝
老いると軽く生きられる
人生百年時代といわれるように
世の中にはお手本となる
年の取り方を身をもって教えてくれる
人がふえてきます。
例え多少肉体的衰えがあっても
認知症を感じるような変化が垣間見るような
瞬間が増えてきたと客観的に感じられるようになっても
それをマイナスの現象として捉えず
ひとつの文化として積極的にとらえていくと
ああいう風な年をとりたいと思われるのではないでしょうか?
蓮如が「人は軽きがよき」という言葉を残しています。
人は成長すると共に
多くの責任、役割を背負って生きています。
その責任は自分の意志で下ろすことはなかなかできないけれど
老いてくると
肉体的にもできなくなるし
認知症がはじまってしまうと
やることは現実的に無理になってしまうので
自分の意志と関わらず、手放すことになる。
その分
背負ってる分を手放して軽く生きていけるようになるのです。
それが年をとることの現実の生き方だと思うのです。
病名に怯えないために
先日メタトロンえお受けられた方は
別件で入院していて
偶然胃癌と診断され
心配や不安が募り受診された。
思いもかけない診断名に
まさに晴天の霹靂で
主治医の先生に
次々に検査の予定を立てられたが
混乱したままで
次のステップに進むことに
納得もできず
現状での検査での外科の医師に
説明を受けることにした。
精査は必要だけど
胃癌の可能性がある。
手術困難な部位にあるので
治療は内科的なものが
中心になるだろうと
説明をうけたようだ。
体感的には
やや体重は減っていたものの
食欲もあり、痛みなどの苦痛もなく
まさに、晴天の霹靂のできごとで
頭が混乱してる上に
とても几帳面な性格の面もあるようで
今の状態で
これから検査治療をすすめ
からだがどんどん疲れ果ててしまうことを怖れ
別の観点からからだの状態を知りたくて
当院を受診し
メタトロンをうける運びになった。
早速メタトロンを受けてもらった。
確かに
胃には破壊性のエネルギーを認め
確かに病変の可能性がある。
ただ、病名を探ると
現段階で胃癌とは言えず、
まだ胃癌の前段階も含まれる
過形成の胃炎だと思われ
胃癌の前段階
胃の治癒力を上げることで
対応可能かもしれない常態とも
考えられた。
更に
全身検索を続けると
一番変化が大きかったのは
脳の状態である。
かなり破壊のエネルギーが強かったからなのか
今は、その破壊のエネルギーの修復する
段階になっていることがわかった。
メタトロン的には
ある意味
脳の方が胃よりも心配の常態だった。
きっと
胃の病変は確かにあったが
それよりも
胃癌という大変な病名によって
悩み、脳が疲れ切って
病名そのものがからだを支配し
病気を作っている状態が
今改善すべきだということを
示していた。
胃の病変を治すためにも
免疫力を自ら高めることは
どんな治療をするにも
必要なこと。
そのために
楽に楽しく、喜びをもって
生きて欲しい。
からだのことは
僕たちがしっかりサポートしてるから
自分の望む人生を生きて欲しいと
自らのからだが言っている気がして
そう、患者さんに伝えた。
すると
患者さんの表情が明るくなり
からだが温かくなってきた
と笑顔で帰られました。
これから
様々な困難なことがあるでしょう。
でも、頭で病気を作らないように
からだの思いを正直に伝えることが
僕ができることなんだと
患者さんの生きていくという決意にも感じながら
見送りました。
適齢適所で生きる
「適齢適所」という言葉は
野球人として様々な記録と共に
多くの名言を残している野村克也氏が
74歳の時日本プロ野球界史上最高齢監督に
なった時に残した言葉。
「監督は体力もさることながら
知力、眼力に分析力という経験が大事なんだ。
頭さえしっかりしていれば、年齢なんか関係ない」と
「適齢適所」で生きていくという言葉を残された。
つまり
何歳になっても
衰えを感じてても
「年齢に応じて輝いて生きていける場所がある」
という、還暦を迎えた自分にとって
とても勇気を与えてくれる言葉。
生きていくということは
年を重ねるということは
「若さ」を奪われていくことではない
「経験」を重ねていくことなんです。
更に監督は
「全盛期を過ぎても、落差に絶えつつ必死でやる。
なんてことを惨めと感じる人はいるでしょう。
ところがボクはそう思わないんですよ。
なりふり構わず、自分の可能性を最後の最後まで追求する。
その方が美しいという。
これは僕の美意識です」と語った。
つまり、年齢をできない理由にするなということを
教えてくれた言葉です。
死ぬまで輝いていけることを
教えてくれた力強い言葉です。
ボケ道のススメ~よりよくボケるために~
年を重ねると
体の衰えもくるけれど
脳の衰えもきます。
つまり、俗にいうボケが起こリます。
個人差、はありますが
全ての人が経験する症状です。
どうせボケてしまうなら
人に迷惑をかけないボケ方をしたいなと
よりよくボケたいと
だれもが思うことでしょう。
どうせボケるなら
尊敬されるボケ方
愛されるボケ方
孫やこどもにも愛されるボケ方を
したいと思うことでしょう。
そうなるためには
脳の直接的な問題もあります。
そのためには
規則正しい食事、酒、タバコなど嗜好品の使用
適度に体を動かす、頭を使う
人とコミュニケーションを計るなど
各論的方法は人の数ほどあります。
人それぞれ生き方が違うので
ひとりひとりが、今の生き方、これからの生き方を
考えて判断する必要があります。
総論的には
精神的に現役で生きるということでしょう。
それは仕事についてのことだけでなく
人として現役として生きていくことだと思うのです。
ボケないように現役で生きる生き方「ボケ道」を
考えていきませんか?
人はなぜお酒を飲むのか
お酒で
人生が大きく変わってしまうこともあると
今までの報道でも
自分のこれまでの人生でも
感じることがありました。
お酒には
魔力があるのだと僕はあるのだと
思うのです。
そのお酒の魔力を知って
対応して生きていかないといけません。
お酒に対抗するものとして
僕が注目しているのは
オキシトシンというホルモンです。
こんな実験があります。
オキシトシンを投与すると
アルコールに対する欲求
そして
アルコールの消費量も減るというのです。
これは
たばこに含まれるニコチンに対しても
同様の結果であったというのです。
つまり、オキシトシンには
「お酒をもっと飲みたい」
「たばこをもっと吸いたい」という
衝動を抑える作用があるのです。
もう少し医学的に解説すると
オキシトシンには
お酒をもっと飲みたいと感じさせる
ドーパミンを抑える効果もあるからなんです。
それでは
オキシトシンの分泌を増やすためには
どうしたらいいでしょうか?
オキシトシンは絆を深まると
多く分泌されることがわかっています。
つまり
絆が深まり、オキシトシンが分泌されるので
「楽しい」「うれしい」「しあわせだ」といった
幸福感が生まれてくるのです。
絆が深まる
環境が整えば、整うほど
オキシトシンが分泌され
しあわせを感じるのです。
ですから
家飲みをするより
居酒屋などや
例え公園であっても
みんなでわいわいして飲んだ方が
オキシトシンも多く分泌されるので
楽しくて
路上のみが増えるのも
当たり前のことなのです。
今はコロナウイルスを防ぐ観点から
仕事さえテレワーク
密を避け
人の接触をさけることを
求められる時代になっています。
感染を防ぐためには
やも負えないことかもしれませんが
しかし
それでは、オキシトシンの分泌も減り
しあわせな生き方ができなくなります。
ですから
感染対策しながらも
絆を深める生き方
つまり
家族との絆を深めるなど
リアルでは
本気、本音の付き合いできる
関係を深めるなど
お酒の飲み方だけでなく
人との付き合い方も
考えていく時代になってきたのでしょうね
