「今日の言葉」カテゴリーアーカイブ
生きるか死ぬか
☆9/17(木)~9/19(土)休診となります。
ご迷惑をおかけしますが、ご了承ください。
サンタ夏季休診2026
最近のニュースを見ていると
いのちを粗末にしているなと
感じることが多くなってきている。
死に急ぐのは
生活に苦しむおとなだとは限らず
これから輝かしい未来がある
若者に言えること。
自らのいのちを粗末にするだけでなく
死刑になるために
人のいのちをあやめよう
殺しの練習するような
あってはならないような
事件までも起こっている。
なぜ、こんなに
簡単にいのちをあやめてしまう
時代があった。
日本の歴史をみると
刀で人をきるという
人のいのちを簡単に奪う時代は
確かにあった。
しかし、戦争にしても
人を切るにしたって
他の人も納得できる
大義名分がありました。
しかし
現代は、その大義名分が
あまりにも軽くなっているような気がします。
これは
一種の平和ぼけの裏返しではないでしょうか?
戦争を生き抜いた
小野田寛朗さんが
ご自身の死生観を次のように述べています。
「生きる」か「死す」か
迷い迷った時、判断、決断が鈍ったとき
私の基準はここにあった。
「生かされている」なら
トコトン、生きて、生きて、生き抜いてみよう。
とことん、闘って
その先に神があたえてくれた道がある。
その先がどんな道であっても甘受する。
と述べられています。
どんな時にも生きて生き抜く
そして
必死で生きている人を
尊重する生き方が
きっとあなたの人生を救ってくれると
僕は思うのです
「人類みな兄弟」のはずなのに
☆9/17(木)~9/19(土)休診となります。
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サンタ夏季休診2026
この言葉は
みんな仲良く暮らそうということを
こどもでもわかりやすく説明した言葉。
「人類みな兄弟。
一つ命に生かされている兄弟」だから
宇宙飛行士は
人類は「宇宙地球号」という
一つの船に乗り合わせた兄弟なんだと
いいます。
頭ではわかっていても
実際は、人類は争ってばかり。
兄弟だと思ったら
お互い傷つけ合ったりしないはずなのに
実際は
自分たちの都合ばかり考えて
人類の欲望の満足ばかり追いかけている。
村上和雄先生は
この人類の状況を憂え
「モア・モア・モア」
「もっと・もっと・もっと」という
人類の欲望のために
人類自らが滅亡を来すのではないかと
危惧されていました。
人類の欲望のために
地球温暖化が進み
戦争があとをたたず
大きな世界大戦に発展しそうな
火種を抱えています。
そして
大きなニュースにはならないけれど
地球上のあらゆる微小動・植物が
急速に絶滅に追い込まれています。
「もっと。もっと、もっと」という
際限なく貪っていく人類の生き方を
切り替えなければ
人類は滅亡するのではないでしょうか?
今こそ
ひとりひとりが
人類皆兄弟、宇宙船地球号に乗っている
仲間だという意識を持って
生きるべき時だと思うのです。
三毒・貧瞋稚(とんじんち)について
☆9/17(木)~9/19(土)休診となります。
ご迷惑をおかけしますが、ご了承ください。
サンタ夏季休診2026
人間には百八といわれるほど
多くのの煩悩があります。
その代表として
貪りと怒りと愚痴の
「貧瞋痴」があり
これを三毒といいます。
お釈迦様は
この三毒を断ち切れば涅槃
つまり苦しみのないところに
早くいけると説いています。
この三つのなかで
一番重大なのは最後の愚痴です。
この愚痴の意味は
天地の道理に暗いということです。
つまり
僕たちは
天地いっぱいに生かされて
今ここにいる存在だということを
わかっていないという意味です。
天地の道理を理解していないから
ちっぽけな自分の皮の突っ張りの中の
欲望だけを追いかけて生きている。
「ああしたい。こうしたい」
「たい、たい」と。
自分だけがいつも問題なんです。
そういう人は
何歳になろうとも
精神的にはこどもだというわけです。
貧瞋痴の痴は
そういう意味です。
また
生かされているという命の道理に暗く
小さな自分の欲望だけを
限りなく追いかける。
それが「貧」です。
そして、思うようにいかないと
腹を立てる。
これが「瞋」なのです。
勝って騒がれるよりも、負けて騒がれる力士になれ
この言葉は
日々数々の勝負の世界に勝って騒がれるよりも、負けて騒がれる力士になれ
これは
二十八代立行司・木村庄之助さんが
仰った言葉です。
身を置いている人物の言葉なので
とても深い感じがします。
つまり
勝って騒がれるのは
勝負に到った技に対する賞賛の声でしょう。
でも、
負けて騒がれるのは
勝ち負けに関係ない
生きるその人の人格に対してでしょう。
騒がれるのは
いいことならいいけど
スキャンダルだってあります。
多くの人は
スキャンダル好きだと言われています。
最近のニュースなどをみても
賞賛される成功者に
スキャンダルが暴かれて
もっと騒がれることも多々あります。
このことを鑑みて
改めて、この言葉に戻ると
勝負に対しての賞賛は一時的。
ですから
その人が永く賞賛されることは
勝ち負けを越えたところで
正々堂々生きて行けということだと思う。
いかなる時も
待ったなしの「今」に
あるべきようにいきていくこと
これが本当の命の生き方では
ないでしょうか?
神社めぐりは魂の修業
人はなんのために神社に行くのでしょうか?
年の初めの初詣
こどもが生まれたらお宮参り
受験、就職の前には合格祈願
厄年の時には厄払い
特別な願いがあるときには
願掛けなど
一年の内に何度か
神社に参拝される方はいらっしゃることでしょう。
でも
こう考えると
困ったときだけ、お願いするときだけ
参拝するって
どこか人間の身勝手さな行動に
神様はため息をついていないか
気になったことがあります。
でも
神様は神社に来てもらえるだけで
喜んでらっしゃるのです。
神社に行くこと自体が
”魂の修行”なのです。
小さい頃
神社で遊んでたこどもたちは
その後信心深く、豊かな人生を過ごしてる
ような気がします。
こどもは
神社に行っても
おとなのように
手を合わせて参拝することはありません。
でも、手を合わせなくても
それでいいのです。
神社に行くこと自体が
小さな魂の修行になっているのです。
神様は
こどもが大好き。
こどもたちの楽しそうな声を聞くのが
大好きなのです。
こどもが
神社で遊びたくなるのは
偶然ではなく、魂からの導きなんです。
ですから
神社に行きたくなったら
是非行かれて下さい。
神社巡りは
魂の小さな修行になるのです。
美しい言葉を使うわけ
からだは、食べたものからできています。
では、耳から入ってきた言葉は
何を作るかと言えば
こころを作っていると思うのです。
聞いた言葉によって
こころが作られるとしたら
「ダメ」とか「どうせ」という言葉を
自分やこども達に使っていると
そういうこころになってしまうのです。
だから、自分に対しても
相手に対しても
喜ぶ言葉やうれしい言葉を
使うのがいいのです。
そして食べ物がからだを作り
聞いた言葉がこころを作るなら
自分が口にした言葉は
未来を作っていくのです。
自分が発した言葉が
言霊になって自分に返ってくるのです。
だから
「でも」「だって」「どうせ」という言葉を
口癖にしていると
「でも」「だって」「どうせ」という
未来が作られているのです。
ですからおとなもこどもでも
絶えず美しい言葉を聞き、話すことが
その人の未来を美しいものにするのです。
鏡の力
病気になって
感じたことのひとつに
自分のからだの中に
自分のからだを守ってくれている
力があるということ。
どんなに
からだにとって悪い生活
例えば
暴飲暴食、睡眠不足
ストレスを忘れるために
お酒を飲み過ぎたとしても
あなたのからだが壊れないように
必死で守ってくれているんですね。
僕も
リハビリ中も
まだ完治してないのに
残った力が協力し合って
できないことをしようとしてくれている力が
自分のからだの中にあることを感じ
その力に感謝していました。
その力って
もしかして人がいう
神様なのかもしれないなぁなんて思ってました。
最近
古事記より古い
古事記などの元になったかもしれないと
思えるような記述が多く見られる
ホツマツエという歴史の珍本が
あるのを知りました。
その中に
鏡のことが書いてあるんですね。
鏡と言えば
三種の神器の一つでもあり
古代から大切なものと
考えていたのです。
ホツマツエにも
鏡の記載があって・・・
世の中が乱れたときに
瀬織津姫様は
武力では人は変われない
こころを直すことが大事だと考えられ
伊勢神宮の下流の二見浦に
大きな鏡をつけられたたそうです。
なぜ、鏡なのでしょう?
鏡の”か”は明るい部分
“が”はこころの暗い部分
という意味があります。
ですから
自分のこころのなかにある
暗い部分
すなわち責め心、嫉妬、不安などを
知り、そして取り除くのが鏡の役割。
すなわち
かがみから”が”を取り除くことで
“か み”に出会える。
自分の中の神に会えるというのです。
鏡と言えば
日本だけでなく
西洋でも白雪姫などの有名なお話にでも不思議な力が
あると考えられた存在です。
自分の中には
神という存在があるけど
自分の中の暗い部分があると
神の存在を遠ざけてしまっているので
鏡には
本来の美しい自分を見る、知ることが
一番の役割なんですね。
自分の中に神様はいらっしゃるのです。
気持ちが塞いだときには
鏡を見て鏡の自分に笑顔を向け
明るい表情で過ごすと
明るく過ごせると思います。
ハラスメントの難しさ
時代が変わったと言えば
人付き合いの難しさ。
最近では
何気ない一言が
○○ハラスメントだと言われて
非難される。
セクハラ、パワハラから始まり
カスハラ、モラハラ、アカハラ・・・
など雨後の竹の子のように
○○ハラスメントが増えている。
最近では
先生が生徒を指導することや
親がこどもを叱ることさえも
ハラスメントだと
言われてしまう。
親や先生に叱られても
愛を感じての指導だったので
納得して怒られていた。
そして反省して学んだはずだ。
それが
最近の行動をみていると
叱られている行動のみを切り取られて
○○ハラスメントだと
非難される。
親でさえ
こどもに対して(厳しく)指導することを
躊躇してしまう。
教えることが難しい時代になった。
今のこども達は
ハラスメントの世界で
生まれ育ってきたので
抵抗感があるのは
我々せだいなのかもしれない。
ハラスメントの問題は
「何をされたか」よりも
「誰にされたか」が重要であることです。
このぐらいは大丈夫だと思って
生きてきた我々の考え方を変えて行く時です。
相手がどう思うか
これが自分の家族や大切な人に
向けられるとどう感じるかを
想像して、行動することが
必要とされる時代になったのです。
サンタブログ202608
本 唯川恵「60代、日々好日時々ため息」P76
新・徒然草②72
しあわせな子育て(こどもの問題)11
#73ウソを見抜く方法
人は相手のことを信頼していないと
決してこころを開いてくれず
本当のことを言ってくれません。
特に言葉では
相手の気持ちを察することは難しいと
経験的にも思います。
行動学者の
デズモンド・モリスは
人間の動作で信用できる
順番について研究しています。
その結果
一番信用できるのは
汗をかいたり顔色がかわる
自律神経による信号だそうです。
二番目に信用できるのは
下肢信号、つまり足の動きです。
足は脳から一番遠いので
脳がうまくコントロールできず
本音が出やすくなるというのです。
三番目が体幹、姿勢、動作
四番目が微妙な手の動き
五番目が見分けられる手振り
六番目が顔の表情
七番目が言語です。
つまり
言葉が一番信用できないのです。
人間は言葉でウソを言うし
顔の表情も作れます。
だから言葉だけでなく
非言語も含めて
総合的に理解することが大事なんです。
愛があったから手術用手袋が生まれた
医者が
手術の時に必ず使うゴム手袋ですが
かつて、全て素手で直接消毒液で消毒して
行われていました。
だから当時の手術に立ち会った
看護師はみんな手が荒れてたそうです。
外科医ウイリアム・ハルステッドは
同じ病院の看護師
キャロライン・ハンプトンに恋していました。
彼女の手は
強い消毒のせいで大変荒れていたそうです。
そんな痛々しい彼女の手を
消毒液から守ってあげたいと
メーカーに頼み込んで
薄いゴム製の手袋を作り
彼女にプレゼントしたそうです。
しかし、残念ながら
その特製の手袋は
使われることはありませんでした。
製品がわるかったわけではなく
彼女は、その手袋を渡されてから
すぐ、彼と結婚することになったからです。
今当たり前に使っている
医療用ゴム手袋に
こんな美しい話があったとは・・・
感動ですね。
記憶の中のしあわせ探し
からだは、家などの建造物と違って
からだの中身も構造も
時間が経つと変わっていることが
わかっています。
10年も経てば
細胞ひとつから
10年前の細胞と全く別の
細胞に置き換わっているのです。
そして毎日の生活においても
僕たちは
毎日食べ物を摂取し、排泄し
その繰り返しを日々くり返す内に
日々
からだの内容を変えているのです。
それなのに
肉体的変化を
感じながらも
統一した同じ自分、自己を
維持し
生涯ひとつの肉体、人生を形作って
生きていけるのは
不思議だと思いませんか?
自分が、自分としての生涯を生きていけるのは
そこには
自分のからだをまとめてくれている
主宰舎のような力が
働いているからではないだろうか?って
感じるのです。
この力があるから
60兆もある細胞
それも日々変化している細胞を
統一されて
昨日と同じ自分
1年前と同じ自分
死ぬまで同じ自分として
生きていけるのでは
ないでしょうか?
僕たちが
今ここにいられるのは
この僕たちのからだをまとめてる
監督のような力の
おかげなんでしょうね。
この自分自身をまとめている力は
自分がこうしようと思って
できるような力ではありません。
この力は
自分では意識できない
深いところにあり
今の科学では解明できないような
非常に複雑な力、働きであり
この力は
自分だけでなく
生きている人や動物、植物にも
存在し、それぞれに働いているのです。
それは
この地球上の生物だけでなく
地球そのものにも
太陽にも
宇宙全体にも働いている力が
存在してるから
僕たちは、今ここに存在できるのでしょう。
この宇宙全体を統一している力のことを
我々は昔から神と崇めている
存在なのかもしれません。
