「今日の言葉」カテゴリーアーカイブ
家庭がストレスを解消する場
みなさんは
ストレスがたまった時には
どこで解消されますか?
仕事に行き詰まった時逃げ場はありますか?
石川啄木は
実は働くことがあまり得意ではなかったようで
家族のために仕方なく働いていたそうです。
そして落ち込んだ時に
自分のダメさえを実感することもあったようで
「友が皆、我よりも偉く見ゆる日よ
花を買い来て妻と楽しむ」
という歌を残しています。
仕事でコンプレックスを覚えた時は
家に帰って奥さんと花を愛でることで
ストレスを解消する。という意味。
おとなだけでなく
こどもにとっても
ストレスを感じやすい社会を生き抜くために
家庭が
ストレスから逃れる場であって欲しいと思うのです。
☆奇しくも
今日はクリスマスイブ。
日頃忙しくしている人も、
今日だけは大切な人と過ごす時間をつくりましょう。
それが、とても幸せな時間だと思うのです。
神様からのプレゼントだと思うのです。
お金より大切なもの
そもそも人生の目的は
「しあわせに生きること」であり
「お金持ちになること」ではありません。
しあわせに生きるために
お金は必要なものだということ。
だから
汗水流して働いて
お金を稼ぐのも
お金を貯めたり、少しでもお金を増やそうとすることが
しあわせに生きるために
お金なしでは実現できないから。
だから
お金は手段であり
それ自体が目的でないことを
こころに留めておかなければいけません。
お金がしあわせになるための
手段である限り
お金はある程度あった方がよいということです。
でも、お金を払っても手に入らないものがあります。
家族、友人、健康そして愛情などです。
これらから得られるしあわせのために
お金を使うのが一番いいのかもしれません。
尊さは知に宿る
平安時代から明治時代にかけて
寺子屋で使われてきた「実語教」
という教科書があります。
この中に
「山高きがゆえに貴からず。
樹あるを以て貴しと為す。
人肥たるが故に貴からず。
智あるを以て貴しとす。」
という一節があります。
知識があることで
貴いのだということです。
人は見た目でではない。
人はお金を持っているかどうかではない。
人は学問をすることが貴いのだと言うことを
こども達は教わってきて
勉強して来たのです。
忙しいこどもたちに
勉強する意味を失いかけているこどもたちに
この言葉を贈りたいと思います。
なぜ初めに言葉があったか?
言葉ひとつで
人生が変わってしまうことがある
言葉ひとつで
願い事が叶うこともある。
僕は言葉はとても
大事なものと思っています。
聖書に
「はじめにことばあり」と
世界のはじまりは言葉からはじまったと
書いてあります。
人類が言葉を持つようになったのは
人類が誕生して
かなり経ってからだと
記憶してるので
この聖書のはじまりの文には
どこか違和感を感じ
なじむことができませんでした。
しかし
最近、いろんな書物を読むようになって
この言葉ありきの解釈に触れる
ことが多くあり
少しずつ意味がわかってきました。
聖書でいう言葉というのは
どうも神そのものの存在を表してる
という結論に至りました。
神は光であり、エネルギー波動であり
時間をも支配する存在。
神の力を総じて
わかりやすく述べているのでは
ないのでしょうか?
実際に言葉でコミュニケーションをとるように成ったのは
人類が誕生しかなり経ってからだし
それまでは音として
音とは波動なんですよね。
すなわち
今のように
耳で感じる音としての言葉ではなく
波動として
相手の意志を感じ取り
自分の意志を伝えていた。
また
これも定かではないですが
昔々、縄文時代、ムーの時代の人々は
まだ肉体もなく
波動のままの状態であった時期が
合ったとも考えられています。
波動でコミュニケーションをとっていた
エネルギーを感じていたのではないでしょうか
自分の身の回りの生物をみても
自分の耳にはわからなくても実際には存在する
虫の羽尾と、こうもりの超音波、鳥の鳴き声
全てもものは波動を伝え合っています。
これは
生きているものだけでもなく
神も波動で私たちに話しかけているのは
昔も今も変わらないことかもしれないと
僕は思っています。
言葉は
波動エネルギーと考えると
その言葉に、想いという波動エネルギーをも
乗せて、伝えることもできるはず。
それが言霊ということに成るのだと思います。
最初に
言葉というエネルギーによって
この世は始まった。
そしてそのエネルギーによって
生まれた人間をも含めた地球上の全ての生物は
神のエネルギーを受けとり
そのエネルギーの使い手なんだと思います。
ほめられる人からほめる人に
現代は生きにくい社会になっているともいわれ
年々うつ病などの
精神疾患が増えている現代。
みんな好き好んで
生きにくい社会に生きているわけではなく
この社会でも
生きていこうと努力している。
社会からはみ出さないように
自分の望む望まないにかかわらず
他人からほめてもらおうと頑張って
自分を防衛している人が増えている気がします。
その結果
頑張りすぎて、無理をしすぎて
精神的バランスを崩してしまうのです。
この生きにくなってきた社会を
生きやすく生き抜く方法は
ほめる人になればいいのです。
ほめられて嫌な気分になる人は
少ない者です。
あなたのことをよく思っていない人でも
ほめられると
あなたに対する気持ちも変わることでしょう。
ですから
人間関係の潤滑油は
「ほめられる人」から「ほめる人」で
生きていくことです。
生きている意味
今ここに生きているということ
存在している、存在したということは
誰も否定できない。
だから、例えいのちが消滅することがあっても
人間の存在を消滅することも
誰をも破壊することもできない理由。
そして
あなたが病に苦しんだ時
例え、もう先が長くない
かもしれないと思ったとしても
この世に生きて苦しんでいたことは
誰も否定できない。
それをもなかったことにはできない。
だから
あなたが生きてきたことも
死をも抹消されることもないのです。
そして
あなたの生きてきた事実は
死によって有意義なものとして
輝き続けるのだと思うのです。
だから
今の自分が生きているのも
これまでの多くの犠牲の
おかげであることも忘れてはいけないのです。
コロナの次は食糧難の時代が来る!?
コロナ感染が大流行中の
2020年12月21日に以下のようなブログを
書いていました。
「コロナ感染が拡大する中
その影に隠れてますが
僕が注目している
ちょっと心配なニュース。
それは
実はあちこちで広がりをみせている
鳥インフルエンザのニュース。
この鳥インフルエンザのニュースに関連して
心配な鳥不足のニュース。
このクリスマスシーズン前で
実は鳥肉が不足しているとか。
このニュースが鳥インフルエンザと直結している
わけではないかもしれませんが
もしも、もしも
鳥インフルエンザウイルスが
強毒化し、人に感染するようになったら・・・・
また
世界は、食品の消費が高まってくると・・・・
食糧難の時代がやってきそうな気がするのです。
今の日本は
食料は充分にある豊かな国ですが
現実をみてみると
食料自給率は10%ともいわれていて
実は
食糧難の時代がくる可能性と
背中合わせの国であることを
自覚しなくてはいけません。
世界、世の中の状況が変われば
食糧難に陥ってしまうのです。
例えば
①世界全体の食料生産力が低下し
各国が食料を輸出できなくなった場合。
②新型鳥インフルエンザなどの強毒性のある
ウイルスによって
パンデミックが発生した場合。
まさに今の世界全体は
自粛で、感染のため外出を控え
長期家庭内に待機することに成り
食料生産力の低下とともに
消費力の増大によって
食料の需要と供給のバランスが崩れることに
よって起こる食糧難の時代が
来てもおかしくないかもしれません。
パンデミックが最も恐ろしいのは
食料が尽きて餓死をすることです。
1ヶ月で人は餓死すると言われてます。
そして
不安と恐怖にさいなまれると
人の死期は更に早まると言われています。
その他にも
③国の経済破綻したとき
④外国勢力による経済制裁、封鎖によるもの
そして、最後は天変地異が起こった場合。
考えると
安心できない、危うい状況で
僕たちの今の生活が成り立っていることが
わかりますね。
救う道・・・は一筋縄では
いかないかもしれません。
ひとりひとりの力は小さいかもしれませんが
ひとりひとりの他人を、地球を思いやる
日々の生き方をすることしか
ないかもしれません。」
最近の米騒動も
生活を足元を見つめ直す時に
なっているのかもしれません。
死を大事にするということ
死を大事にするとは
死にゆく時間を大事にすること。
脳死を人の死とするなら
脳死から心停止にいたる時間を
家族が死にゆく者と会話し、受容し
納得のいくかたちで
死を迎える時間が大切。
死は本人にとってだけでなく
家族など周りの人にとっても
受け入れるための
時間が必要なのです。
その時間を大事にすることが
死を大事にするということだと思うのです。
六つの顔
狂言界の至宝・人間国宝野村万作の
文化勲章受章を記念して作られた
ドキュメンタリー映画。
この映画の醍醐味は
受賞記念講演で演じられた
狂言「川上」のノーカット版。
狂言を観るのは初めて
とても堅苦しいものではなく
狂言とはウィットにとった喜劇だけど
日本語が少し古めかしいこともあったけど
映画なので字幕つき解説があって
狂言「川上」をどうして
93歳の現役狂言師がこの演目を選んだかがよくわかった。
「川上」は
盲目の男が
視力を回復するために地蔵菩薩にお詣りする。
地蔵菩薩は
視力回復をするのと引き換えに
「妻とは前世での悪縁であるために
離別するように」と告げるのです。
里に下りて
視力か、尽くしてくれた妻か・・・と究極の選択に迫られ
視力回復を選び、妻に離別してくれと頼む。
それに対して妻がどうしたか・・・
ここにただの喜劇ではない
現代にも通じる大切なテーマがあって
こころが持って行かれた。
盲目の男を野村万作が勤め
対する妻を息子の野村萬斎が努めた
その二人のやりとり
盲目の男の手を取る姿
夫婦の絆にとどまらず親子の絆
世代への引き継ぎなど
深い深い演技内容だった。
そして、神は伝える
「前世の縁よりも、仏の思いよりも
現世の縁を大事にしなさいと」
義理ではなく人情を大事に
若い時はお付き合いは大事にしてきました。
だから
義理で慶事に出席したり
会合に出たり
また頼まれると義理のために
断れないことも多々ありました。
そして、年齢が進むと
義理でおつきあいが負担になってきます。
ですから
義理にお金をかけたり、礼を尽くすことよりも
もっと大事なことに
礼もお金を尽くすのは
義理にはほどほどにして
人情に対して行動するべきだと思うのです。
これからはお別れの場面に出くわすことが
増えてくることが予想されます。
その時悔いを残さないように、
これからの人生はお世話になった人に
十分礼を尽くすことが大事だと思うのです。
