「今日の言葉」カテゴリーアーカイブ
なぜ老いを考える?
高齢化社会が年々進むにつれて
どう老いるかは
社会的問題にもなってきている。
そういう自分も
今年還暦を迎え
当分先だと思っていた老いが
身近に感じるようになり
これからどう老いるかが
自分らしく人生を歩むために外すことができない
問題になってきました。
老いる時期を迎えると
この時期の生き方が
自分の人生の結果にも繋がるといっても
過言ではないと思います。
今までの自分の生きてきた社会は
物にあふれ
飽食と美食を追い求め
まずは自分と自分の周りの家族のしあわせを
追求することが
大事な目標になっているのが
現代社会の実情ではないでしょうか?
今では自分のしあわせをまず追求して生きること
を当たり前だと思っているけど
自分たちの親世代までは
自分だけのしあわせを追求することを
どこかエゴイズム、恥ずかしいことと
考えていたので
あまり公言せずに腹の中にとどめるように
生きていた気がします。
不幸な戦争を経験し
より自分を犠牲にしてでも
僕たちの自由を守ろうとしてくれた結果
現代社会は
若者中心の文化になってしまいました。
自由を謳歌した若者も
いつのまにか老いてしまうのです。
その時になってどう生きていくか迷わないように
迷いたくないと思います。
今還暦を迎え
これからどういきるかが
人生の目的結果になると思うのです。
そこで
これからみんなと
これから新しい老いる生き方を
考えて行きたいと思います。
はじめにしあわせがあった。
真夜中、ひとり
目には見えない
くり返す波の音を聞きながら
思う。
今もくり返される
波の音は、いつ始まったんだろう。
地球が生まれてきた時から
刻み続けられている
正確な永遠の時間。
でも
波の音に耳を傾けていると
打ち寄せてくる波の音は
全く同じ音ではないことに
気がついた。
波の音に
風の木々を揺らす音が重なり
雨音の音が
絶妙なハーモニーを醸し出している。
この自然のハーモニーを
最初に作り出した人は
きっと人間の
いや、世界全体のしあわせを願って作り
永遠にしあわせを作り出すと
思っていたにちがいない。
この世界ができた時には
確かにしあわせが合ったのだと思う。
そのしあわせな時間を壊してしまったのは
ひょっとしたら
人間なのかもしれない。
主人公
臨済宗円覚寺派管長の横田南嶺先生が
著書「臨済録に学ぶ」の中で
京都の禅寺相国寺の田中芳洲老師の
次のような詩を紹介していました。
この身に
地位・名誉・財産・学歴・男女などに汚れない
主人公がいる。
あなたにも、誰の中にも、
その人の主人公が紛れもなく住んでいる。
彼は私が善いことをした時には
私に心の底から喜びを与えてくれる。
彼は私が悪いことをした時には
私の心に動揺と反省を与えてくれる。
誰にみていないと思っていても
いつもどこでも私の心と行動を観ている。
彼は自分を偽らず
悲しい時には素直に涙し
うれしい時には心の底から喜び
怒るべき時には晴天の雷のごとく
雷鳴の後には雲ひとつなく
和らいだ光を放つ
そういう「主人公」に出会えた時
人は歓喜し「悟りを得た」というのである。
ここでいう「私」は
普段考えたり、思ったりしている
自分のことです。
それとは別に
自分をどこかで観ている存在がいる。
それをここでは「彼」と言っています。
一般的に言えば
神やお天道様とも言えます。
それが「主人公」であり、
そんな本当の自分が誰の中にもいるのです。
祖先から受けついだ温かい人間味
1960年頃
イラクにあるシャニダール洞窟で
ネアンデルタール人の9体の人骨が
発見されました。
このネアンデルタール人は
今から3万5000~6万5000年くらい前に
生きていた人々であったことが
推定されています。
この人骨の周囲には
多くの花の花粉が落ちていて
埋葬された時には
多くの花に囲まれていたのかもしれません。
周りの人に大切にされ
その死を悼む心が
ネアンデルタール人にもあったのでしょう。
それとともに
僕がびっくりしたのは
この人骨のひとりは
左の眼窩が粉砕骨折していて
右手がなく、足の骨も変形していて
この状態ではうまく歩けなかったことが
想像できるのです。
何らかの事故による損傷かと思うけど
驚いたのは
その怪我が原因で死亡したわけではなく
しばらく生きていた可能性があると
言うことがわかったというのです。
つまり
目も見えない
右手も使えない
つまり自分では何もできない
みんなの力を借りて生きていたという
事実なんです。
現代よりも
医療もなく、過酷な自然の中で
仲間を必死で介護して
共に生きようとした
ネアンデルタール人の心に触れた気がして
胸が熱くなったのです。
そして、その時
その熱い思いが
自分のDNAや魂にも刻み込まれていることを
知ったのです。
満足できるしあわせ
ひとはしあわせなを感じた時
このしあわせな時間が
もっと、もっと続いて欲しいと願う。
一時的なしあわせ
一日だけのしあわせだけでは
満足できないのが
人間の性。
誰もが
今、しあわせを感じた時に
このしあわせが長く続いて欲しいと願う。
これって
人間のわがままのひとつかもしれない。
でも
今こうして
永遠の時間を刻み続けるような
波の音を聞きながら
目を閉じると
肌をなでるような優しい風
見上げれば
僕のことをずっと見つめてくれている
星の瞬き
僕の周りのもの全てが
しあわせな時間を作り出している
のがわかる。
すると
このしあわせな時間が
一瞬でなく
永遠のしあわせな時間を紡いでくれれいるのが
わかる。
ブレイクスルー思考
生きがい論じたひとつの考え方に
ブレイクスルー思考という
考え方があります。
この考え方は
「人生は思い通りにならないからこそ
価値がある」とする考え方です。
そうなのかなぁ?と思う方も
多いことでしょう。
自分自身の人生を
目的を持って歩きたい
人生成功ししあわせに過ごすことが
目的、目標だと考える人も多いことでしょう。
自分の思い通りにならないと
思い、そのことを受け入れた時に
次のステップの道が
開かれるような気がするのです。
そして
その道を歩き、困難を乗り越えた時に
新しい自分が誕生するのだと思います。
だから
「人生の中で起こる全てのことに
意味があるのです。
たとえ表面的に失敗、挫折、不運にように
思えた出来事でも
全て自分の成長のために
自分自身で用意した試練だというのです」
そして
自分自身が解決するため
自分自身が成長するために
自分自身で準備した問題であるから
乗り越えることは
必ずできるのです。
ここまで読んでこられて
そんなことはない
そんなスピリチュアルなそら言ではなく
現実はもっと厳しいと
いって生きていこうと思う人も
多いことでしょう。
それはそれでいいのです。
厳しい問題を
がむしゃらに乗り越えようとすることも
その人の用意した
生き方だと思うのです。
人は不要不急な存在
コロナ流行中
感染を防ぐために様々な言葉が
くり返されました。
その言葉ののひとつに
不要不急以外の外出を控えましょうの
不要不急という言葉。
目的のない外出
今やる必要のない用事は
控えましょうということだけど
人間自体が
不要不急の存在かもしれないと
思ったのです。
なぜなら
誰もが、今来ている理由、生まれてきた理由
わからないで生まれてきています。
それは
要も急もないということには
ならないだろうか?
生き急ぐことはないかもしれないのが
人間の存在理由なのかも。
そして
人は不要不急で生きると言うより
今を一生懸命生きる存在なのかもしれない
しあわせ探し
人は誰でも
しあわせになりたいと思っている。
しあわせがどこにあるかわからないから
しあわせ探しを一生懸命している。
一生かけてしあわせ探しをする人もいるし
しあわせをすぐ見つけて
しあわせに生きる人もいるし
死ぬまでしあわせ探しを続ける人もいる。
しあわせってどこにあるんだろう?
って思うけど
実は誰もが
自分のこころのなかに
しあわせの種をもっているのに
それに気がつかず
自分の外にしあわせを見つけようとする。
でもしあわせの種は
外にはないから、いくら探しても
見つからない。
だって
外にあるものはしあわせそのものではなくて
しあわせの理由、結果だから。
お金、友達、地位とか
癒やされるものに囲まれる、自然の中にいるとか
ひとのやさしさに触れたとか
しあわせを感じる理由は一杯あるけど
実は、それはしあわせの結果。
しあわせそのものではない。
しあわせそのものは
その人のからだのこころの中にある。
しあわせの理由はなんでもいい。
しあわせの理由は人それぞれ。
だから
しあわせを感じる
こころをもつことが大事。
しあわせだと感じることが増えれば
もっと、もっとしあわせになれる
日本の宗教、西洋の宗教
欧米社会で成功した人たちは
共通した生活習慣をもっているという。
それは宗教を大事にしているということ。
欧米での宗教と言えば
キリスト教に代表される
一神教の神の教えを守ることで
道徳観を保ち続けること
その生き方が
人としての評価が高まり
信頼を得て、成功に繋がるという
図式になるのである。
欧米と比べて
日本にもキリスト教、仏教をはじめ
様々な信仰を持っている人は
現在もいるが
それらは日本人固有の宗教とは言えない。
欧米人の生活習慣としての
宗教にあたるものは
先祖供養だと思う。
日本人は昔からお盆やお彼岸には
仏壇やお墓参りをして
会ったことのないご先祖様に
思いを馳せる人が多い。
そして、
困ったことがあったり、
成功したいなら
お墓参りをしないさいという話しは
よく耳にする。
池内家の菩提寺は
加古川の称名寺にあるが
自宅から遠いため
数回ほどしか行ったことはないが
人生の岐路に立たされた時
なぜかお墓参りを一人で挙行して
その後の人生の道が開けたことがあった。
もうひとつ
日本人が古来から大事にした宗教は
太陽信仰である。
今ではあまり言わなくなったけど
「お天道様がみているぞ」と言われたり
初詣を拝んだり
まぶしい太陽に触れると
無意識に手を合わせてしまうのも
自分の身体に染み込んだ太陽信仰のDNAの
なせるわざだろう。
またお墓参りはお盆や年末にするのはわかるが
お彼岸にお詣りするのは
日本独自の風習らしい。
なぜなら、
お彼岸は昼の時と夜の時が同じ日。
その日は、この世の人とあの世の人の魂が
もっとも通じやすい人
平安の昔から考えてたようです。
ご先祖様と太陽が
私たち日本人の生きる道を
ずっと照らしているのです。
心感じるままに
若い時は
いろんなことを学びます。
学んでるときは
「真実とは?」{正しいこととは?」などに
目がいってしまいます。
そして、
なんのために勉強しているのか
わからなくなってしまうこともあります。
実は勉強し学びを深めることも大事だけど
実は
学んでる時でも
何をする時でも、
その時の感じる心が大事。
”勉強して、わかって楽しくなった”
”今日、頑張って走れたことがうれしい”
”そうじをすると、心がすっきりした”
”お友達と仲良くできて、心が明るくなった”
とか
心で感じたことを
大事にしてもらいたい。
心に感じたことを
大切にして
日々暮らしていくと
”自分は今、何をしているとうれしいのか
自分は今、何をしている時が充実してるのか”
考えるようになります。
そんな風に生活していると
何かに悩んだ時でも
その心の中に
自分らしく生きるヒントを
見つけることができます。
しあわせになる鍵は
自分の心の中にあるのだと思います。
将来
何をしたらいいかわからなくなった時
なぜ、勉強しているのか
わからなくなった時は
自分の心に質問してみて下さい。
”今、何をしたら楽しい?”
いつも
どんな時も
頭で考えたことより
心で感じることを大切に
生きてもらいたいです