「今日の言葉」カテゴリーアーカイブ
人生の下山の景色を楽しむ
登山で下山といえば
登る時は、頂上に行くという
期待と希望があり
それを楽しみに登ると言うのが
登山の醍醐味だと感じ
みんな苦しくても頑張って登るものです。
そして
登ったら必ず下りないといけません。
下りる時は
次第に現実に戻る気がして
少しさびしげな印象があるかもしれません。
でも下りには
下る時の楽しみがあると思うのです。
登る時は
ただ登った時の絶景を楽しみに
脇目もふらず、後ろも振り返らず
無心で登ったと思います。
必死で上へ上へと昇り
周りを眺める余裕もなかったことでしょう。
でも、下る時は
気持ちも余裕もあり
体力、気持ち的にも段々回復してくるので
周りをみたり
ちょっと眺めのよいところでひと休みをするなど
登る時には気づかなかった
絶景の景色に出会うことも多々あります。
人生を登山に例えるなら
若い時は、目標を達成するために
ただがむしゃらに
寄り道もせず
休みたい気持ちも惜しんで
進んだことでしょう。
人生の山を下る時にこそ
自分の人生を豊かなもの、
より幸福なものにする原石が転がっていると思うのです。
自分の歩んできた道や
下界の景色
自分が立った景色をのんびり眺めながら
気持ちの余裕をもつことができて
登りの時には気づかなかった
見えなかった大切なもの、美しいものに
気がつくことができるのです。
人生の山を下る時こそに
しあわせをかみしめていく時間なんだと
思うのです。
☆今日から新しい年が始まりました。
人の運命は星のめぐりあわせに左右されるといわれています。
九星気学では、自分の本命星が一白水星方向にある年を厄年と言っています。
今年は数えで6、15、24、33、42,51,60,69歳のかたです。
まずは今年厄払いをしてもらいましょう。
神様はどこにいる?
神様のことを信じている人は多いけど
実際、神様がどこにいらっしゃるか
わかる人はいないものです。
「神様はどこにいらっしゃるのか?」という問いに
玉光神社の本山博元宮司が
次のように答えられています。
「神の道を求めるものは
大きな川にだけ
水が流れると思って
大川に水を求めていくような
過ちをよく冒すものです。
あなたが今立っている足下にこそ
尽きることのない
地下水が流れているのです。
神を知ろうとするものは
まず己をよく知って時をまつことなのです」と。
また別の時には
「神様とは、ラッキョウのようなものです。
ラッキョウの皮を剥いて
ラッキョウを求めるようなことをしておると
手許にラッキョウの皮が残らぬから
ラッキョウはないと思うでしょう。
が、剥い手捨てた一枚、一枚の皮がラッキョウです。
神様ですよ」と。
つまり
神様は至る所に偏在しておられるのです。
目に見える物質や現象だけで
この世は成り立っているのではないのです。
物質も現象も、それをそれとして成り立たせる
背後の大きななものに支えられているのであって、
偉大な神のみ業kらすれば
目に見える物質や現象というものは
末の末の業なのである」と
つまり神様は目に見えない存在であると思っている
のは人間の浅はかな考え
実はいつも、今でも
神様に守られていることを
忘れないで生きていくことが大事なのです。
☆今日は節分です。明日は立春。
明日から新しい年が訪れます。
そこで、来年が良い年になるように
氏神様や恵方の方角(南南東)の神社にお参りしましょう。
善と悪がある理由
人々の行いは
大きく善と悪に分けられると思うけど。
単純に善と悪という
二つには分けることは難しい。
全てが「善悪善」だったり、「善悪悪」だったり
「善善悪悪」、「善善善悪」だったり
無数の立場があります。
そしてその度合いも
常に変化します。
今日と明日でも変わるし
朝と晩でも変わってしまうことも
日常茶飯事なのは
日々体験していること。
それは、自分自身だけでなく全ての人間が
無限に変化しているという
宇宙の仕組みによるものだと思うのです。
そして、
どうして、この世には善と悪という
両極端な真野がものがあるのでしょうか。
それは
善も悪も必要なものだからです。
善も悪も両方ないと
方向性を決めることができないのです。
人間は誰しも
対比するものがなければ
自分の方向性を決められないものなのです。
ニュースで凶悪犯罪を起こした人が報道されると
そのことは悪いことだと判断されます。
戦争ばかりしている国の話しを聞くと
平和な国で暮らしていることが
ありがたいものに思えるのです。
善なるものだけに囲まれていたら
我々はきっと善悪の判断ができなくなるでしょう。
だから
天使がいるのも悪魔のおかげなのです。
善も悪も生きていくために必要なものなのです。
素敵な奇跡
毎日、多くの人に出会います。
その出会いのひとつひとつ・・・・・って
”先生”と呼ばれて、返事をしている自分がいる
”〇〇さん”と呼ばれて、返事をした自分がいる
”〇〇ちゃん”と呼ばれて、返事をしている自分がいた
”パパ”と呼ばれて、返事をしている自分は、ちょっと不思議
呼びかけられてわかる 自分の立場
人生に用意された 自分の立場
この尊い出会い、絆って
素敵な奇跡
ミソカモウデ
さとうみつろうさんの書いた
「神様とのおしゃべり」を読みました。
神様のことばとして
書かれている宇宙の法則の話が
600ページ近くもある本でしたが
内容に納得しながら
あっという間に読了できました。
この本で学んだことは
これからちょくちょくお伝えできればと
思っています。
読み終わったときが
29日で
この本の巻末に
「ミソカモウデ」について
書かれてたので
奇しくも翌日が30日だったので
「ミソカモウデ」に初めて行ってきました。
朔日詣では聞いたことあったけど
ミソカモウデは初めて聞いたことでした。
ミソカモウデを紹介します。
効能はあなたが確実にしあわせになる
日時は毎月30日(2月は28日)
場所はあなたの家の近くの鳥居がある
神社やお宮など
方法は
①鳥居に入る前に礼をする
②手を浄める
③お賽銭箱に300円以上入れる
④礼をして
⑤大きく深呼吸を3回し、こころを鎮める
⑥手を合わせる
⑦自分の名前、住所、干支を言う
⑧お宮の鏡を見たり、鏡がなければ目を瞑る
⑨今日起こったいいことをできる限りたくさん思い起こす
⑩それら一つ一つに
「ありがとうございました。
○○が起こってとても
しあわせでした」ということ。
⑪感謝の気持ちが湧いてきたら
その感覚に意識し全身に広げる
⑫最後に「ヤワタ」と声を出してつぶやく
⑬全て終わったら礼をする
⑭その時の気持ちに包まれたまま家に帰る
これが作法ですが
感謝を神様に伝えることというか
感謝の心をもって過ごすことは
生きていく上で
とても大事なことだと教えていただきました。
お参りが終わって
帰る道々
こころがぽかぽか温かく感じたのも
ミソカモウデのおかげ、神様の御心だと
感じたのでした。
みなさんも、毎月30日
ミソカモウデされてみてはいかがですか?
八紘為字(一字)
お正月は
今年がいい一年に為るように
いろんなお願いをするかと思います。
個人的な願いごともあるでしょう。
世界の平和を祈ることもあるでしょう。
世界平和を祈る言葉の中で
「八紘為宇」というのがあるのは
ご存じですか?
この言葉は、政治家が時々口にする言葉で
東京裁判の時に議論されたり
最近では、三原じゅんこ参議院議員が
国会の発言で注目された言葉です。
この言葉は、日本古来の言葉で
神武天皇が
東征を決断されたときに
兄の五瀬命に述べたことばとして
現在まで伝えられています。
現在の漢和辞典によると
八紘は「天地の八方の隅」で
転じて全世界を意味し
「宇」は家を指します。
すなわち全世界をひとつの家にするとの意味。
その言葉を
神武天皇はきっと
日本全体が平和に収まった状態を
思い浮かべ
日本列島全体が
私たちの家となり
私たちが
同じ家に住む家族となるとこを願い
この言葉を発されたのではないかと
僕は思うのです。
今は
日本だけの問題だけでなく
世界全体が一つの家、家族と
為らなければいけない時を
迎えているのです。
今こそ
八紘一宇の精神で
「奪えばたりなくなるけど
分け与えれば余る」という
応神天皇が引き継がれた精神をも
日本人として生まれたからには
引き継ぎ、世界に広めないといけない
精神なのだと思います。
この精神は
特に、災害が起こったときなど
国全体がピンチに陥った時に
覚えていたい精神だと思うのです。
忍耐の意味
「忍耐」とは苦しい時に耐える、乗り越える
という意味にとらえがちだけど
実は
その苦しみを感じた時に
もう一歩前に、でようとするか、しないかが
曲がり角だということを
教えてくれている言葉だと思う。
前にでようと一歩踏み出すことで
それはもう「苦しみ」ではなくなる。
むしろ「喜び」に変わると言うことを
「忍耐」という言葉が
教えてくれてくれているのです。
生きているのではなく生かされている
新しい年を迎えて
思うことがあります。
それは
今ここにいるのは
自分の力でここにいるのではなく
ここでいるように
生かされている
という気がとてもするのです。
思えば
ひょっとして
今ここに存在しなかったかもしれない
出来事が
これまでに2回ありました。
一つは
今から約15年前。
山登りに魅力を感じていた時期で
乗鞍岳の登山に挑戦した時のことです。
乗鞍岳は
3000mを越える山ですが
初心者の僕でも
登頂することができ
山登りの楽しさを教えてももらった
山でした。
山登りは
下山するまでが山登り。
とも言われます。
その時
一緒に同行した方と
下りは自転車で下ろうと提案してくれて
サイクリングの経験はないけど
下るだけなら
ついて行けるだろうと
軽く考えてOKしました。
でも
そこに魔物がいたんです。
長距離の下り
ペダルを漕がなくても
どんどんスピードが乗ります。
それも3000mの下り坂
つづら折りのカーブを曲がりながら
降りていきます。
スピードも乗って、楽で快適です。
でも
ガードレールの下は
絶壁の崖のところばかり
スリルも少しは感じながら
スピード感に酔いしれ
自転車が加速していきます
まさに
風を切り、風に乗ったと思った瞬間
カーブを曲がり切れず
ガードレールを
乗り越えてしまったんです。
目の前が真っ暗に成り
体がふわっと宙に舞う感覚とともに
ドスンと落ちて
右の胸を
ガードレールの柱を固めてあった
セメントの土台にぶつけ
強い衝撃と痛みで
僕の楽しい山登りは終わりました。
肋骨を打って
ひびが入ったのでしょう。
それからしばらくは
笑っても痛い
ベットから起き上がるのも
痛くて動きがとれない状況が
1週間近く続きました。
楽しい旅行の結末は
苦い思い出になってしまいました。
でも
冷静になって振り返ると
そのカーブだけが、すぐ地面だったのです。
つまり
他のカーブを
曲がりそこなってたら
深い深い谷底に落ちてしまい
いわゆる滑落事故として
いのちがなかったと思い
今思うとぞっとしてしまいます。
そして
一年前の脳出血。
脳出血でいのちを落とした方の
ことを聞くことがありました。
今まで元気だった方の
突然のニュース。
そんなニュースを聞く度に
僕もそうなっていても
おかしくなかったんだと思います。
亡くなったかたも
死ぬなんて思わなかったんでしょう。
色んな状況
同じような状況でも
死ぬ人と生きている人がいる。
このちがいってなんでしょうか?
人は寿命、運命だと言うのかもしれませんが
僕には
自分で勝手に生きているのではなく
誰かによって生かされている気がして
ならないのです。
生きる、死ぬも
自分で決められない
だから
毎日いやこの瞬間を
悔いなく過ごさないといけないと思うのです。
時計の文字盤が円いわけ
時は、真っ直ぐ進む訳じゃないから。
円環のように、ぐるぐる同じ所を回っているから。
そして、人間は
その円環から、決して逃れることはできない。
円環という牢獄の中に
閉じ込められているのかもしれない。
でも、実は
閉じ込められている円環から
人生のなかで
一瞬その円環から解放される時があるという。
それがいつ起こるのか
いつ起こったかもわからないかもしれない。
しかし、その瞬間に
それまでの人生とは大きく異なる
何かが生まれる瞬間を経験するという。
その時は
一瞬のタイミングであるという。
その一瞬のタイミングを確実につかむために
今この一瞬一瞬を生ききることが
大事なのです。
波動を合わせる
宇宙には
あらゆるエネルギーが充満しており
自然界にあるすべてのものは
宇宙全体とつながっています。
そして人も例外ではなく
全ての人が
宇宙とつながっているのです。
ですから
宇宙全体に波長を合わせることで
大きなエネルギーを受けることが
可能になるのです。
そして
宇宙の波動を合わせることで
自分のもっている波動を
変えることが可能になるのです、
すなわち
医学的に治すことが困難だと
考えられる病気でも
宇宙からのエネルギーを受ければ
治ることも可能だと
考えられます。
これは
病気のことだけでなく
宇宙のエネルギーの波動と
合わせれば
全てのことが
自分の思うままの方向に
動き出すこともできるのです。
でも
そうだと知っていても
現実にはそう動き出すのは
容易なことではありません。
ただ宇宙のエネルギーと
波長を合わせるだけでは足りないのです。
仏教の言葉に
三密加持という言葉があります。
加持の加はというのは
宇宙の力
持というのは
こちら側が受け取る状態であるということ
密は密着しているということ。
すなわち
こころとからだそして魂も合わせて
宇宙からの力を
受け入れる準備ができていることを
表現した言葉なのです。
仏教でも
宇宙からのエネルギーの存在に
合わせて生きていくことの大事さを
教えてくれているのです。
人間は自分ひとりで
生きていない
いえ、生きられるわけではないことを知り
全てのことに感謝して
生きていくことから
全てのことが始まるのです。
