「今日の言葉」カテゴリーアーカイブ
リーダーの素質
最近
日本では初の女性総理大臣が誕生しました。
総理大臣だけでなく
世の中には多くのリーダーがいます。
そこで
リーダーについて
少し考えてみたいと思います。
リーダーとは
人の上に立つ指導者です。
人の上に立つということは
みなさんのことを理解する
つまり全てのことを
理解しなければならない立場にいます。
全てのこととは
文字通り全てのこと。
経済などの
目に見える物質的なことだけでなく
人の気持ち
ものを動かす力
地球、宇宙のエネルギーなど
全てのものを構成するメカニズムなど
目に見えない力との調和も
考えていかなければならないのです。
物事の道理、真理、真髄を理解し
自ら行動し、人々を引っ張っていくことが
リーダーになる人の大きな役割だと思います。
真理を理解し、行動を
くみ上げていかないと
どこかで必ず失敗しかありませんし
そんなリーダーが作った組織には
不満しか残りません。
そんなうわべだけの行動で
真理に促さない行動をとっている場合は
いくら知恵を絞っても
よい知恵、良い結果はえられません。
これは
地方自治体だけで無く
国家においても同じです。
真理を考えの原点とし
考え方を変換することが
国家をも安定させることになります。
つまり
リーダーこそ
意識革命が必要なんです。
真理に反した行動を続ければ、続けるほど
もがけば、もがくほど
地獄に落ちてしまいます。
世界中のリーダーと言われる方に
知っていただきたいのは
私利私欲を優先した行動をしないで下さい。
真理を無視して
自己満足優先、自我意識で運営していては
世界はよくなりません。
何も変わりません。
もし、一見経済が復活したとしても
今回のような
パンデミックが起きたり
新たな天変地異が起こるやもしれません。
子や孫、子孫に残すものは
財や名誉ではなく
今いる地球、
変わらない宇宙、世界のはずです。
この世界を守るために
リーダーの意識革命が必要だと思うのです。
希望を持つな
人は
苦しい状況になると
よく希望を失わないように・・・など
希望をもつことが
大切だと良く言われますし
僕もそう思って
希望は失わないように・・・なんて
よく口にしていました。
でも
今回入院したとき
希望をもつということ
希望を持とうと思えば
自分を苦しめることになりました。
例えば
来月は、3ヶ月後には
今までのように
歩いたりできるんだばどと
希望をもとうとすればするほど
現実とのギャップを感じ
希望の大きさに比例して不安を大きくなったんです。
苦しい時に
希望を持つ、もとうとすることは
決してしないといけないことじゃないと
今では思っています。
退院して
入院していたときのことを振り返って
なぜ、希望がこころの支えにならなかったが
わかったので
今回のテーマは、「希望をもつな」です。
希望をもったとき
自分の目線がどこを観ているか考えてみると
どこか遠くに視線を移し
遠い未来を観ていないでしょうか?
つまり
希望をもつということは
現実を見ずに未来を見ている。
現実を否定し、未来へと逃避することなんです。
希望を持つとは
今は良くないので
未来に期待しようという考えなんですね。
でも
未来を期待したからといて
現実の今は全くかわっていません。
人は
期待に裏切られてしまうと
希望もないといってしまいます。
期待が強い人ほど、絶望感が増し
そして最悪の場合
自殺してしまう人が出てきてしまうのではないのでしょうか
希望をもっても
今を変えることはできません。
もし何か現実のことから落ちこぼれた状態になった時
希望を持とうと思うより
落ちこぼれたって言いじゃないか、失敗しててもいいじゃないか
これから、こうしてみようよ
と考えたり、諭してあげる方が
希望をもとうと遠くの未来のことを考えるより
ずっと心が楽じゃないでしょうか?
病気になったときに
「絶対良くなるから、頑張れ」と
今頑張っている人に対して
もっと頑張れとムチをうちようなことに
ならないでしょうか?
それよりも
「病気になって良かったよ
このまま頑張りすぎてたら、もっと大きな病気になってたよ
ゆっくりね」と
言われた方がどんなに楽でしょう。
希望を持とうと
未来を想像するのは
現実から逃避してしまうことですが
希望をもつよりも
思ってはいけないことは
今を拭こうだと思うことです。
今不幸な状態にあると思うのは
世間や他人と自分を比較しているからなんです。
困難に陥ったとき
失敗だったな、今は反省しようなどと
いまの状況を受け入れることが
心にとっての療養になります。
病気をすると言うことは
反省する、考え直す時間をくれてるんですね。
あなたを苦しめるためではありません。
病気で気づいたことを大切に
これから生きていきましょう。
それが
本当の希望をもつことなんだと思います。
毎日しあわせだったら、しあわせなの?
毎日がしあわせだったら
そのしあわせをしあわせだと
認識できるだろうか?
しあわせなことしか
身の回りにない時に
それをしあわせだと思えるだろうか?
不幸なことがあって
それと比較することで
初めてしあわせの位置が
決まるのではないだろうか?
自分たちは
いつもしあわせだけを
喜び、感謝し
しあわせであることを望んでばかり。
でも、大事なことを教えてくれて
成長させてくれるのは
「悩み」「失敗」「病気」などの
望んでないこと。
それに対して
感謝の気持ちを持つことを忘れてはないだろうか?
不幸せなことだ思えることに
感謝する気持ちがもてれば
必ずしあわせは近づいてくるはず
人生3万日
人生80年を生きる日を
日数でいうと約3万日ということになり
5千日ごとにその年齢に応じた役割があるのです。
生まれてから14歳までの5千日は
ひたすら「感謝」のこころを育てる時期。
次の27歳までの5千日は
がむしゃらに「学ぶ」時期。
更に41歳までの5千日は
学ぶことを「実践」する時期。
それから55歳までの5千日は
己の人生を「構築」する時期。
その次に訪れる68歳までの5千日は
今まで得た集大成を後に続くもの達へ
「還元」する時期。
そして、80歳までの5千日は
ここまで生かしてもらった社会に対する
「奉仕」の時期なのだというのです。
こういう区切りを頭に置いて生きると
人生の生きる目的が見つかりやすいですね。
黒川の女達
この映画は
1930~340年代、政府の国策のもとでおこなわれた
岐阜の黒川村から満州の地に渡った開拓団が
生きて日本に帰るために
18歳以上の未婚の女性に接待をさせた。
みなが生きて帰るために
文字通り体を派って、辱めにも耐えて
生きて日本に帰ってこれたのに。
彼女に待ち受けていたのは
差別と偏見の目立ったのです。
彼女達も
生きていくために
当時のことは封印し生きてきたのです。
でも、当時のことを
「なかったことには
できない」と
当時の事実を語ったドキュメント映画。
事実は小説よりも奇なりという。
まさに
今平和で生きていけるのは
出征した兵隊さんのおかげだけでなく
歴史の闇に葬られた
このような女性の戦いもあったことを
忘れてはいけない。
この秋
これからの国のリーダーになる人の
演説を機会が多くあったけど
いつも
靖国神社の参拝が取り上げられる。
そこにはA級侵犯だから・・・とか
そこを問題にしているが
もっと、もっと大きな広い目で
日本のためにいのちを捧げた人々に
純粋に感謝の気持ちで
手を合わせないといけない
と思う映画でした。
悟るとは?
前回のブログで
太宰治は「パンドラの箱」の中で
人間は死によって完成されると
書いてあることについて
書きました。
同じ文豪であられた
正岡子規が病床にいたときの
日々の思いを書き留めていた
「病床六尺」の中で
悟りについて書かれた箇所があります。
「悟りといふことは
いかなる場合にも
平気で死ぬること思っていたのは間違いで
悟りといふことは
いかなる場合にも
平気で生きていることである」と
書いています。
つまり
悟りとは
自分がどう生きていくべきかを
何か修行をして気づくことではなく
日々の生活の中で気づくこと
今を生きること
すなわち、今を生きていること全てが
悟りなんだと思う。
悟りとは
何を悟るのか?
生きている日々の中で
何を感じたときに悟ったと思うのだろう?
僕は
悟りは学ぶものでもなく
人から教えてもらうものでもなく
こころで感じるものではないのかと思う。
こころで感じたものは
きっと魂が学ぼうとしたもの
現世に生まれてきた目的
そして魂の学びを感じられたときに
悟ったと思うのではないのでしょうか。
僕も
病気をして
全てを失ったときに
自分の生活、生き方に向き合い
「愛」の大切さを知りました。
「愛」を学ぶために
この世に生まれているのだと思います。
だから
今もこうして思い、感じたこと
つまり僕の感じた小さな悟りを伝えたくて
毎日ブログを綴ってえるのだと思います。
今の生活、今生きている瞬間
全てが悟りの瞬間なんです。
そんな悟りの時間を
大切に愛を込めて過ごすことで
自分の生きていく道、つまり悟りの道が
広がっていくのだと思います。
死によって完成する
生きるとは何か
死ぬとは・・・・
この永遠の命題について
昔から
多くの哲学者を始め知識人が考え
各々の考えを残しています。
昭和の文豪太宰治は
著作「パンドラのはこ」の中で
こんな風に語っています。
「人間は死によって完成せられる
生きているうちは
みんな未完成だ。
でも、虫や小鳥は
生きて動いてるうちは完璧だけど
死んだ途端にただの死骸だ。
完成も未完成もない
ただの無に帰る。
人間はそれに比べると
まるで逆である。
人間は死んでから、1番人間らしくなる
というパラドックスも成立するようだ」と。
つまり
今生きているのは
何か目的をもち
自分を成長するために生きていると
太宰は考えたのだろうか?
死は終わりではなく
死をもって生きて経験したことが
意味をなす。
肉体以外に魂があること
魂の成長のために
生きているのだと言っているのか?
太宰治は
破天荒な人生を生きた方のように
僕は思うのが
何かの成長を意識して
生きてこられたのかもしれない。
太宰治が
魂のことを信じていたかどうか
確認する術は
今の僕にはないが
きっと人は
魂を持ってこの世に生きていて
死ぬと、肉体は死骸だけれど
魂はその後もいきると
考えていたのかもしれない。
太宰治の話を聴くことができるなら
是非きいてみたい。
あなたは、魂の成長を意識していきていたのですか?と
遠い山なみの光
人は希望と夢を持っているから
生きていけるだ。
ノーベル賞作家カズオイシグロ原作の
映画をみた。
カズオイシグロは長崎出身である。
過去の長崎と現在のイギリスとを
人生を描きながら話しを進んでいく。
長崎で原爆を経験した
二人の女性のその後を描いた人生。
被爆地にいたことで
原爆の恐怖、周りの偏見、将来の不安を
抱え生きている二人の女性。
新しい希望を描いて
外国で生く決断をした二人。
しかし、そこでも苦しい現実が待っていた。
戦争が
どんなに深く傷跡を残し
運命を変えてしまう。
でも、生きていかないといけない現実。
平和について改めて
考えさせられた映画だった。
こころがこもった言葉
南極観測船「ふじ」に乗り込んでいる
夫に宛てて
日本にいる奥さんが打った電報は
ただ3文字「ア ナ タ」。
たった3文字の言葉だけど
その言葉に込められた思いが
当事者でなくても伝わり
奥さんの夫を思う気持ちがヒシヒシと伝わってくる。
人は言葉を使うことで
多くのことを人に伝えることができるようになった。
そして
現代は、本、手紙、電報、作文だけでなく
SNSを使って
今感じることを文章で伝える手段を多く持つようになった。
実際
直接話すよりも
文章で思いを伝えることが増えてきた。
かつては
目を見て話しなさいとよく言われた。
発する言葉が相手に伝わるように。
でも今は
どんな文章を書く時には
「こころを込めて」書くことが大事になってきているような
気がするのです。
清少納言
清少納言といえば
「春はあけぼの・・・」ではじまる
「枕草紙」の作者で有名です。
実は幼い時父・清原元輔が
周防の国司になられ、現在の防府市にあった
周防国府に赴任されていたようです。
自分が今生きているところに
1200年前の超有名な女流作家がいたなんて
とても浪漫を感じてしまいます。
ただ清少納言は
清原元輔の晩年にできた子で
赴任を命じられたのは974年。
清少納言は966年頃生まれたと言うことなので
清少納言が当時のこと(思い出)とわかることを
残念ながら書き残してはいません。
ただ「枕草紙」160段に
「ただ過ぎに過ぐるもの 帆かけたる船。
人の齢。春、夏、秋、冬」という
文章を残しています。
この文章は
おだやかな海をゆったり
帆をあげた舟に乗っている時のことを思いだして
書いているのでしょうか。
すれ違う船はどんどん過ぎていく。
きっと瀬戸内海を
父親と乗った時の楽しい思い出を思いだし
きっと
今は自分もおとなになり
もしかしたら父親も亡くなっているかもしれない
そんな時間の流れを感じたのでしょう。
きっと
清少納言にとって
防府にいた時は
父親と過ごした楽しい思い出の時間だったことでしょう。
