投稿者「santa」のアーカイブ
時の流れを感じる時
以前入院していた時は
日曜日もなく
毎日、曜日は関係なく
リハビリに取り組みました。
機能回復に重要な時期に
休みなくリハビリに励めたのは
とても有り難いことでした。
でも
ある意味、それは
同じ毎日の繰り返し
今日が何日であっても、何曜日であっても
関係ないのです。
有り難いことだけど
曜日関係を意識しないでいると
時の流れに鈍感になります。
まだまだ認知症の進む年齢でなくても
意識しないと
わからなくなりそう。
病院も
できるだけ季節感を感じてもらおうという
配慮から何でしょう
節分、ひな祭り、バレンタインの時には
まめ、桜餅、チョコのババロアなど
その行事を感じることができる
食事が出てきます。
また
日曜日の朝だけパンがでるのです。
季節を感じる食事をとれることは大事
もっと広くいえば
旬の物を食べることって
からだにとっていいだけでなく
心にも大事なことなんですね。
でも、日々今日を感じるために
個人でも努力することは大事です。
僕は
自由時間には
必ず新聞を読むことを欠かさずしました。
1面からテレビ欄までじっくり
今の世の中の動きを想像しながら
呼んでいきました。
そして、テレビのニュースも
その当時
プリンスダイヤモンド号での
コロナウイルスのニュースばかりで
日常とはかけ離れたこと
そして
今もそうですが
感染者数がどうだと・・・
報道される内容やコメントは
いつも同じだということに気がついたんです。
そんな時
朝起きたら、カーテンを開けて
外を見渡しました。
僕の病室からは
視線に入ってくる人工物は
道、電線以外はありません。
僕の目の前に広がる世界は
毎日違う光景なんです。
予想しない太陽の光が織りなす
刻々と変化する
空の色、雲の形
植物の戻りの色、そして鳥が飛んできて
みせてくれる風景は
一瞬たりとも同じ光景はありません。
昨日見た風景、おととい見た風景とも
明らかにちがう光景。
テレビや、スマホではぜったい感じられない
最高のエンターティメントに
心奪われ
時間が過ぎていくのも忘れて
ずっと窓の外を見ていました。
自然は刻々と変化している
昨日と同じ今日はないことを
教えてくれています。
これは自然の中だけの話ではなく
自然の一部である僕自身も
昨日と違う僕なんだということに気がつきました。
だから
今日も新たな自分に感謝して
一歩一歩歩いていけるんだということに
気がつきました。
入院中の身であっても
今日生きている、
昨日と違う自分で生きられることを
教えてくれた入院生活でした。
そして
退院した今もそのことは続いています。
「この世に私のものは一つもない 」
たった今、コンクラーベが終わり
新しい教皇が決まったようです。
そんな時
前フランシスコ教皇が最後に残された手紙の存在を知りました。
温かい言葉を残されたことに
とても感謝しています。
温かい世界になることを願い
フランシスコ前教皇の手紙を紹介します。
「この世に私のものは一つもない 」― フランシスコ教皇 ―
この世の
すべての愛する子どもたちへ。
私は今日、
この人生を通り過ぎる者として、
小さな告白を
一つ遺したいと思います。
毎日、顔を洗い、
身だしなみを整え、
鏡の前に立って生きてきました。
その姿が「私」だと
信じていました。
しかし、振り返れば、
それはただの、
一時的にまとう衣でした。
私たちはこの身体のために、
時間を使い、
お金を使い、
愛情と情熱を注ぎます。
美しくありたい。
老いたくない。
病気になりたくない。
そして……
死にたくないと願いながら。
ですが、
結局この身体は、
私の願いにかかわらず、
太り、
病み、
老い、
そして、
静かに私から
離れていきます。
この世で、
本当に「私のもの」と呼べるものは、
一つもありません。
愛する人も、
子どもも、
友人も、
そしてこの肉体さえも。
すべては、
雲のように、
一時的に留まるだけの存在です。
憎い縁も、
美しい縁も、
すべては
私に与えられた
人生の一部でした。
だから、
避けられないなら
抱きしめてください。
誰かがしなければならないことなら、
「私が先に」
そう思って
取り組んでください。
無理やりではなく、
喜びの心で。
やらなければならないことがあるなら、
先延ばしせず、
今日、今すぐに行いましょう。
あなたの前にいる人に、
あなたのすべての心を
注いでください。
泣けば、
解決するでしょうか。
怒れば、
良くなるでしょうか。
争えば、
勝てるでしょうか。
この世の出来事は、
すべて、
それぞれの流れに従っています。
私たちができるのは、
その流れの中で
少しの余白を与えることです。
少しの譲り合い。
少しの思いやり。
少しの控えめさ。
それが、
誰かにとって
温かな息抜きとなります。
そして、
その温もりが、
世界を再び
包み込む力となるのです。
今、
私は旅立つ準備をしながら、
この言葉を
遺したいと思います。
「本当に、
ありがとう。」
私の人生に
触れてくれた
すべての人々へ。
すべての縁へ。
そして、
この美しい世界へ。
「私と縁を結んでくれたすべての人々に、
心から感謝します。」
静かに振り返ると、
この人生は、
感謝に満ちた
奇跡のような旅でした。
どうか、
あなたの人生にも、
このような静かな奇跡が
訪れますように。
心から
お祈りしながら、
この手紙を終えます。
人を愛するとはその人のしあわせを願うこと
時代の流れなのか
愛の形が変わってきていると感じる。
愛し合う二人の選択は・・・
結婚しないという選択
こどもを作らないという選択など
かつてあった
しあわせな家族の風景は
様々な形、生き方が選択できるようになった。
ひとりひとりにとっては
自由に選択できるからいいけど
日本のこと、世界のことを考えると
こどもを減っていくのは
大変なことだと
国はお金をばらまいている。
若い夫婦の経済的負担がかからないよう
子育てしやすいように
できる援助を必死でしているけど
少子化は経済的問題だけではないでしょう。
豊かな生活を維持するために
お金を使っているという風に思えるのです。
そこにあるのは
愛する形が変わってきたのではないでしょうか?
戦争を経験した
我々の両親の時代は
愛する我が子のしあわせのために
自分を犠牲していた。
つまり、自分のことは二の次で
あったことは
幼い時に感じていました。
これが愛の原点かなと思うのです。
本当に愛しているなら
全部自分のために使いたいこころを
人のために使う場所を空けること。
これが人の愛ある行動なのです。
相手のために
自分の時間やこころを空けておく余裕を持てることが
人を愛するという目に見える形だと思うのです。
つまり
真実の愛は、その人のしあわせを願って行動する
これが人を愛する行動だと思うのです。
お金を稼ぐ目的は
今後の生活をどうするかを考えるときに
いのちは大事だけど
経済活動も止められない。
そのために、なにができるのかと
政府も人々も悩まされている。
お金を持ちたい、
裕福になりたいという気持ちは
どなたにもあるでしょう。
そしてそのために
働いて、お金を稼がれていると思います。
でも、お金を稼ぐこと一生懸命になりすぎると
働く本来の目的がわからなくなります。
そんな時
海外のある寓話をききましたので
ご紹介します。
それは、次のようなお話です。
メキシコの小さい漁師町の港に
アメリカからハーバード大出身のMBA取得の
ビジネスマンがやってきて
漁が終わったばかりの漁師さんに尋ねました。
「その魚をとるのに何時間漁をしましたか?」
「ほんのちょっとの時間です」
「どうして、もっと長い時間漁をして
もっとたくさんの魚をとらないのですか?」
「家族が食べる分だけとれれば充分ですから」
「漁をしない余った時間はなにをしてるんですか?」
「たっぷり寝て、漁に出て
岸にいる時間は
こどもと遊び、妻と過ごす。
それから村へ行き
仲間と酒を飲み、ギターを弾く
そしてまた漁に出るの繰り返し。
忙しい人生なんですよ」
すると、ビジネスマンが苦笑して
アドバイスをはじめました。
「もっとたくさん漁をして
お金を稼いで
もっと大きな船を買う。
そうすれば、もっと稼げるし
もっと船を買えて、船団を作って
もっと、もっと多くの魚をとる。
そうすれば、缶詰工場を作って
魚を製品加工して
大量に売りさばけば
もっと大金が手に入ります。
大金をもっていれば
都会に出て
おおきな会社を作ればいい。
そうすればお金の心配することが
なくなりますよ」と
提案しました。
すると、今度は漁師が尋ねました。
「そこまでなるのは、どれくらい時間がかかるんだ?」
「20年から25年かな」
「その後は何するんですか?」
「株を売って、億万長者になれるよ」
「億万長者になったら、何をするんですか?」
「引退して
小さな漁村にでも移り住んで
こどもたちと遊ぶ、妻と過ごし
仲間達と酒を飲んで
ギターを弾いてのんびり過ごすのです。
どうだ、すばらしいだろう」
「????」
この話を読んで
何を感じられましたか?
豊かな人生って
お金を持つ、稼ぐ目的っなんでしょう。
ひとりひとりのしあわせってどこにあるでしょう。
お金では買うことのできないもので
身近にあるものかもしれませんね。
あなたの今もってるしあわせに気づき
失わないように過ごすことが
しあわせなことなんでしょうね。
お金、経済活動だけでは
人はしあわせになれないことを
今の時代が教えてくれているのでしょう
人生の三計
人間には成長段階に応じて
三つの計画を立てながら生きています。
「生計」「老計」「死計」の三つです。
若い時は「どのように生きるか」を考えます。
これが生計です。
そして徐々に年をとるにつれて
「どのように老いるか」をかんがえるようになります。(老計)
最後は「どのように死んでいくか」を
考えるようになります。(死計)
サンタブログ202504
本 執行草舟「老に学ぶ」P159
言葉上 127
#8人を愛するとはその人のしあわせを願うこと
時代の流れなのか
愛の形が変わってきていると感じる。
愛し合う二人の選択は・・・
結婚しないという選択
こどもを作らないという選択など
かつてあった
しあわせな家族の風景は
様々な形、生き方が選択できるようになった。
ひとりひとりにとっては
自由に選択できるからいいけど
日本のこと、世界のことを考えると
こどもを減っていくのは
大変なことだと
国はお金をばらまいている。
若い夫婦の経済的負担がかからないよう
子育てしやすいように
できる援助を必死でしているけど
少子化は経済的問題だけではないでしょう。
豊かな生活を維持するために
お金を使っているという風に思えるのです。
そこにあるのは
愛する形が変わってきたのではないでしょうか?
戦争を経験した
我々の両親の時代は
愛する我が子のしあわせのために
自分を犠牲していた。
つまり、自分のことは二の次で
あったことは
幼い時に感じていました。
これが愛の原点かなと思うのです。
本当に愛しているなら
全部自分のために使いたいこころを
人のために使う場所を空けること。
これが人の愛ある行動なのです。
相手のために
自分の時間やこころを空けておく余裕を持てることが
人を愛するという目に見える形だと思うのです。
つまり
真実の愛は、その人のしあわせを願って行動する
これが人を愛する行動だと思うのです。
毎日楽しめばいい
GWが終わりました。
みなさんは、どんな風に過ごされましたか?
みなさん、それぞれ様々な体験をされたのではないでしょうか?
生きていると
病気になることもあるし
仕事が行き詰まったり
人間関係に疲れたり
色んな心配なこともあります。
人は
本質である魂を
肉体という鎧に包んで
この世に生まれてきたと
考える方もいられます。
なんで
肉体をもってうまれてきたのか?
それは
魂すなわち自分自身が成長するために
肉体をもって生まれてくるのです。
魂は、平たくいえばエネルギーの状態とも
考えられます。
エネルギー=波動エネルギーともいえます。
エネルギーは
同じエネルギーと引き合います。
ですから、魂の状態では
同じエネルギー状態である
エネルギーと一緒にいる世界でしか
存在できません。
それは
ある意味居心地が
いい世界なのかもしれませんが
似たもの同士の世界なので
ある意味成長することが難しい
世界かもしれません。
そこで
魂が成長するために
肉体をもって生まれてくるのです。
肉体をもって生まれることで
魂のもってるエネルギーに関わらず
色んなエネルギーの人と
ふれあうことができるようになるのです。
そして
エネルギーの違う人々と
接触できることで
今までの自分と違う考え方を知ったり
気軽に、自分が望めば
様々な経験ができます。
色んな人と出会い、共に生きることで
様々な経験をすることで
今までできなかった経験をして
その時、自分がどう過ごすかで
新しい世界を知ることになるのです。
いろいろな体験の中に身を置いた時
心が喜んでいることを感じることもあるでしょう。
これが
この世に生まれてきたから経験を分かち合えると
いうことなんだと思うのです。
生まれてきたことは
修行という苦しいものではない
前向きに楽しめばいいんだ。
魂が、もっといろんな経験を楽しめばいい
心から楽しめばいいと思うのです。
今日も、これからも
心から楽しく、喜んで過ごしましょう
美しい老人になるために
美しく死を迎えたいという人は
多いかもしれません。
しかし、死を迎える前に
多くのかたは老人になります。
美しく人生を終えるためには
美しい老人にならないとなのです。
死はその時にならないと
自分がどうなるかは想像の域を超えないけど
美しく年をとることは
生きているうちに、自分の意志でできることです。
美しい老人になるための
僕なりの条件を書いておきます。
美しい老人は
その人が魂の存在になる前の
人間としての完成形であると
考えるならば・・・
美しい老人になるための条件とは
「人間を人間たらしめるものを
自分の中にもっていることではないでしょうか?」
自分を自分らしく
自分を自分として生きているかが
何であるかと言うことだと思うのです。
言葉で表すのは難しいですが
自分の本心
自分の存在を超えた何か崇高で高貴な
本質的な存在だと思います。
あなた自身が
なぜ今ここに存在しているのか
今この時代を生きてきた理由。
あなたが知らない、気づかない力が
あなたにあることに気づき
その力の源に気づくこと、確信をもった時に
あなたの魂は輝きだし
あなたを美しい存在としてくれるのではないでしょうか?
その答えを探し続けるのが
生きている意味のひとつなのかもしれません。
人がいなくなってしまう前に
先日2014年度の出生数が70万人をきったという
ニュースが流れた。
2022年の出生数が80万人をきったと記憶しているので
単純に日本の国から赤ちゃんが生まれなくなっている。
小児科医として
こどもが減ることに対して
どの職業よりも敏感に感じてしまい
診察室の風景も
医者になった30年前より
どこか赤ちゃんの賑わいが減った気がします。
こんままでは、こどもだけでなく
日本人の数、人口も減っているとはいえ
総務省の統計によると
2025年1月1日のの日本の総人口は1億2359万人と
発表されていて
数字だけ診ると、この狭い国土に
多くの人が住んでいるとおもうのだけど
一歩外にでて
周りを見渡すと
人がいなくなったことを感じることばかり。
家の近所の公園や空き地で
見かけるこどもの数が減ったなぁ。
デパートに行っても、人が少ない。
お店屋さんに行っても
自分以外に人がいなくて閑そう。
駅にいくと、駅員さんがいなくなってる。
知り合いの経営者に会うと
働いているくれる人が見つからない。
ニュースでも、人が集まらない倒産が増えた
定員に満たない学校も増えていると。
日本は人口が減っていても
世界人口は現在80億人 50年後には100億人を超えると
予想されている。
日本人もまだ1億人もいるのだから
僕の印象だけだけど
いるとこにはいるのだろう。
だけど・・・将来的には・・・
日本という国はどうなってしまうのだろう。
この状況を変えるには
どうすべきかを考え、提言していくことが
還暦を超えた年をとった小児科医の仕事しなるだろう。
ひとりひとりの意識も
自分だけのことでなく、家族、地域、社会、日本について
真剣に考えていく、考え直さないといけない時期にきていると
思うのです。
本当に人が消えてしまう前に
動き出さないと思う今日この頃です。
縄文時代はしあわせな時代
縄文時代というと
どんな風に感じますか?
動物の毛皮で作った服をまとって
狩りをいそしみ
焼いた肉を頬張っている姿を
まさに
はじめ人間ギャートルズのような
世界を想像する人もいるでしょう。
でも、実際は
とてもしあわせな
現代人が見習う点が多くあることが
わかってきました。
ある縄文時代の遺跡から
小児麻痺になっていたと思える
おとなの遺骨が見つかりました。
これは
医学の発達した現代でも
小児麻痺のこどもを
診断し、養育することは
大変で、今でも社会全体の協力がかかせません。
それが
科学が未発達で
多くの猛獣のような外敵に囲まれている縄文時代に
小児麻痺のこどもを天寿全うするまで
生き抜くことは大変だったと思います。
しかし
それができたと言うことは
機械、知識など特別なものはなにもない時代
存在したのは
みんなで助け合いながら
こどもたちを見守り、手を差し伸べる
優しい気持ちではないでしょうか?
また縄文時代は1万年ぐらい
続いていたとも言われますが
遺跡からは
争った形跡が全くなく
とても平和な時代であったとも考えられています。
現代は
物にあふれ、気候、周りの動植物を
我が物のように支配してるかのように
暮らしている人間社会。
縄文時代よりも、明らかにめぐまた環境とも
思えるけど
我々は、しあわせを感じているでしょうか?
コロナウイルスの出現したのも
物にとらわれてしまった人の心を
よき時代の心を
取り戻すよう警告してる気がするのです。
戦争のない世の中になりましすように
戦争はしてはいけないことです。
日本では、第2次世界大戦以降
軍隊、武器の所有などを放棄し
戦争はいけないものだと教育され
実際戦争をすることもない時代になりました。
僕も
戦争を知らない世代で
実際の戦争を体験した世代も
年々少なくなってきています。
戦争を経験しなくても
世界中のあちこちでは戦争がおこり
自分は戦争を知らない世代だけど
とても平和な世の中になった
という実感はありません。
その理由は
現在の社会は、誰もが口々に
平和を訴えているけど
実際の武力衝突は回避しようとしているけど
現在優勢の資本経済主義社会では
武力衝突ではない形を変えての
戦争が起こっているからではないでしょうか?
暴力は
目に見えて人を傷つけ、尊いいのちを奪い
誰もがいけないことだと認識しています。
目に見える形の暴力はいけないけど
目には見えないけど、お金や原油など
豊かな生活の源泉になると思っている物の奪い合い
それらを奪い、戦い抜く財力が
暴力に代わる形として
人々を支配する道具になっています。
更にいうと
戦場は市場へと変わり
戦争を先導しているのは
軍隊から企業へとかわりました。
そして
軍隊を動かす力は
我々の我欲で変わりはありませんが
前回の戦争は原動力は
生きていくために、生き残るための
自衛の意味合いが強かったのですが
現在は、生存権は保障されていて
より多くの物を手に入れて
裕福に生きたいという
所有欲に変わりました。
このように。現在でも
資本主義の旗の下で
形を変えて戦争(戦闘)体制にあると
考えていいでしょう。
そんな中
コロナウイルスの出現によって
これまでの経済活動が停止する経験をし
世の中は、元の経済活動に戻そうと
頑張っていますが
コロナ流行前に戻るのが
本当にいいことなのでしょうか?
コロナウイルスは
みんなが本当の戦争のない
心から平和だと思える世界に
どうやったらなるかを
考えるチャンスを与えてくれたのでは
ないでしょうか?
これからの世の中が
本当に戦争のない平和の世の中になるように
進んでいかなければいけないのです。