月別アーカイブ: 2月 2026
人生の下山の景色を楽しむ
登山で下山といえば
登る時は、頂上に行くという
期待と希望があり
それを楽しみに登ると言うのが
登山の醍醐味だと感じ
みんな苦しくても頑張って登るものです。
そして
登ったら必ず下りないといけません。
下りる時は
次第に現実に戻る気がして
少しさびしげな印象があるかもしれません。
でも下りには
下る時の楽しみがあると思うのです。
登る時は
ただ登った時の絶景を楽しみに
脇目もふらず、後ろも振り返らず
無心で登ったと思います。
必死で上へ上へと昇り
周りを眺める余裕もなかったことでしょう。
でも、下る時は
気持ちも余裕もあり
体力、気持ち的にも段々回復してくるので
周りをみたり
ちょっと眺めのよいところでひと休みをするなど
登る時には気づかなかった
絶景の景色に出会うことも多々あります。
人生を登山に例えるなら
若い時は、目標を達成するために
ただがむしゃらに
寄り道もせず
休みたい気持ちも惜しんで
進んだことでしょう。
人生の山を下る時にこそ
自分の人生を豊かなもの、
より幸福なものにする原石が転がっていると思うのです。
自分の歩んできた道や
下界の景色
自分が立った景色をのんびり眺めながら
気持ちの余裕をもつことができて
登りの時には気づかなかった
見えなかった大切なもの、美しいものに
気がつくことができるのです。
人生の山を下る時こそに
しあわせをかみしめていく時間なんだと
思うのです。
☆今日から新しい年が始まりました。
人の運命は星のめぐりあわせに左右されるといわれています。
九星気学では、自分の本命星が一白水星方向にある年を厄年と言っています。
今年は数えで6、15、24、33、42,51,60,69歳のかたです。
まずは今年厄払いをしてもらいましょう。
本「月夜の森の梟」
この本は
作者である小池真理子さんが
37年間連れ添った夫であり
同業の作家でもあった藤田宣永さんが
亡くなった後の
生活思いを書き綴ったエッセイ。
見送った後思い出される
夫である藤田さんとの
生活を感情と共に
思いのままに綴られており
赤裸々な思いが胸に迫ってくる
例えば
再発したことを告げられたとき
精神的にも疲労困憊して帰宅した後
家に帰った後
食欲の全くなかったご主人に対して
やっぱりお腹がすいて
カップラーメンを食べているときに
横で
もう手立てがないんだなぁとつぶやかれ
生と死の堺を感じた作者。
年取ると
老人は自分の死を達観して
死に対して落ち着いて
対応でききるようになるのでは?と思うけど
実際、自分も年をとっても
死を達観できるようにはならないし
生きている感覚は
思春期も今も老年期も
変わらないことを知った。
今回
この本を読んで
大切な人が亡くなったときに
どう思い、どんな行動をとるのか・・・
教えていただいた
疑似体験できた有り難いエッセイだった。
自分のつらい気持ちを
語ってくれた小池真理子さんに感謝です。
神様はどこにいる?
神様のことを信じている人は多いけど
実際、神様がどこにいらっしゃるか
わかる人はいないものです。
「神様はどこにいらっしゃるのか?」という問いに
玉光神社の本山博元宮司が
次のように答えられています。
「神の道を求めるものは
大きな川にだけ
水が流れると思って
大川に水を求めていくような
過ちをよく冒すものです。
あなたが今立っている足下にこそ
尽きることのない
地下水が流れているのです。
神を知ろうとするものは
まず己をよく知って時をまつことなのです」と。
また別の時には
「神様とは、ラッキョウのようなものです。
ラッキョウの皮を剥いて
ラッキョウを求めるようなことをしておると
手許にラッキョウの皮が残らぬから
ラッキョウはないと思うでしょう。
が、剥い手捨てた一枚、一枚の皮がラッキョウです。
神様ですよ」と。
つまり
神様は至る所に偏在しておられるのです。
目に見える物質や現象だけで
この世は成り立っているのではないのです。
物質も現象も、それをそれとして成り立たせる
背後の大きななものに支えられているのであって、
偉大な神のみ業kらすれば
目に見える物質や現象というものは
末の末の業なのである」と
つまり神様は目に見えない存在であると思っている
のは人間の浅はかな考え
実はいつも、今でも
神様に守られていることを
忘れないで生きていくことが大事なのです。
☆今日は節分です。明日は立春。
明日から新しい年が訪れます。
そこで、来年が良い年になるように
氏神様や恵方の方角(南南東)の神社にお参りしましょう。
自然な死に時
パプアニューギニアには
呪術医療が盛んで
それを行う医師を「ウィッチドクター」と
呼ばれているらしい。
その医師の治療を実際に見た
医師によると
診断は先祖伝来の木片の上に載せた見ずに
訊ねて診断していたそうです。
実際に肘の痛みで診療を受けた人は
「悪い血を吸い取る」という治療で
症状を改善させたという。
けがや東洋医学では於血と言って
血の滞りを疑うので
診断はあながち違うとは言えないようだけど。
また、呪術医ナンバーワンと呼ばれている医師に
「死ぬ時がわかるか」と訊ねると
自信を持って「わかる」と答えたそうです。
「どうやってわかるのですか?」
その答えは
「歯が抜けて、目が悪くなって、
足が弱くなって歩けなくなった時だ」と
答えたそうです。
その答えを聞いて
日本なら
歯が抜けたら入れ歯を作り
目が見えないなら老眼鏡、白内障の手術
足が弱っでも、乗り物に乗って、車椅子や杖を使って
移動できます。
だから、このような状態になっても
日本人は死を予感することはないのです。
でも、実際は
明らかに生きていく力をなくしていて
死に近づいているのです。
医学の進歩で、老化現象が改善されたのはいいことだけど
それによって
近づいている死までが
遠ざかっているような感覚になることが
現代人の死の恐怖を増すことになっているのだと思う。
人間が元々自然の生き方をしていれば
死さえも自然にうけいれられるように
なっているのかもしれません。
善と悪がある理由
人々の行いは
大きく善と悪に分けられると思うけど。
単純に善と悪という
二つには分けることは難しい。
全てが「善悪善」だったり、「善悪悪」だったり
「善善悪悪」、「善善善悪」だったり
無数の立場があります。
そしてその度合いも
常に変化します。
今日と明日でも変わるし
朝と晩でも変わってしまうことも
日常茶飯事なのは
日々体験していること。
それは、自分自身だけでなく全ての人間が
無限に変化しているという
宇宙の仕組みによるものだと思うのです。
そして、
どうして、この世には善と悪という
両極端な真野がものがあるのでしょうか。
それは
善も悪も必要なものだからです。
善も悪も両方ないと
方向性を決めることができないのです。
人間は誰しも
対比するものがなければ
自分の方向性を決められないものなのです。
ニュースで凶悪犯罪を起こした人が報道されると
そのことは悪いことだと判断されます。
戦争ばかりしている国の話しを聞くと
平和な国で暮らしていることが
ありがたいものに思えるのです。
善なるものだけに囲まれていたら
我々はきっと善悪の判断ができなくなるでしょう。
だから
天使がいるのも悪魔のおかげなのです。
善も悪も生きていくために必要なものなのです。
