年別アーカイブ: 2025
ドゴール「果物採集」
自然には
人を癒す力がある。
そのことを伝えた詩を紹介します。15
ドゴールの詩「果物採集」
「危険から守り給えと祈るのではなく
危険と勇敢に立ち向かえますように
痛みが鎮まることを乞うのではなく
痛みに打ち克つ心を乞えますように
人生という戦場で味方を探すのではなく
自分自身の力を見いだせますように
不安と恐れの下で救済を切望するのではなく
自由を勝ち取るために耐える心を願えますように
成功のなかにのみ
あなたの恵みを感じるような卑怯者ではなく、
失意のときにこそ
あなたの御手に握られていることに
気づけますように。」
この詩の中に
だれにもどんな時でも
生きていく力が自分自身の中にあること
そして
しあわせに生きていくヒントがあるような
気がしたのでご紹介します。
人はなぜお酒を飲むのか
お酒で
人生が大きく変わってしまうこともあると
今までの報道でも
自分のこれまでの人生でも
感じることがありました。
お酒には
魔力があるのだと僕はあるのだと
思うのです。
そのお酒の魔力を知って
対応して生きていかないといけません。
お酒に対抗するものとして
僕が注目しているのは
オキシトシンというホルモンです。
こんな実験があります。
オキシトシンを投与すると
アルコールに対する欲求
そして
アルコールの消費量も減るというのです。
これは
たばこに含まれるニコチンに対しても
同様の結果であったというのです。
つまり、オキシトシンには
「お酒をもっと飲みたい」
「たばこをもっと吸いたい」という
衝動を抑える作用があるのです。
もう少し医学的に解説すると
オキシトシンには
お酒をもっと飲みたいと感じさせる
ドーパミンを抑える効果もあるからなんです。
それでは
オキシトシンの分泌を増やすためには
どうしたらいいでしょうか?
オキシトシンは絆を深まると
多く分泌されることがわかっています。
つまり
絆が深まり、オキシトシンが分泌されるので
「楽しい」「うれしい」「しあわせだ」といった
幸福感が生まれてくるのです。
絆が深まる
環境が整えば、整うほど
オキシトシンが分泌され
しあわせを感じるのです。
ですから
家飲みをするより
居酒屋などや
例え公園であっても
みんなでわいわいして飲んだ方が
オキシトシンも多く分泌されるので
楽しくて
路上のみが増えるのも
当たり前のことなのです。
今はコロナウイルスを防ぐ観点から
仕事さえテレワーク
密を避け
人の接触をさけることを
求められる時代になっています。
感染を防ぐためには
やも負えないことかもしれませんが
しかし
それでは、オキシトシンの分泌も減り
しあわせな生き方ができなくなります。
ですから
感染対策しながらも
絆を深める生き方
つまり
家族との絆を深めるなど
リアルでは
本気、本音の付き合いできる
関係を深めるなど
お酒の飲み方だけでなく
人との付き合い方も
考えていく時代になってきたのでしょうね
「好き」と「愛してる」の違い
「好き」という言葉と
「愛してる」の違いはわかります?
感覚的には、わかるような気がするけど
首をかしげてしまう人も多いことでしょう。
僕がもし聞かれたら次のように答えます。
「好き」は今の気持ち。
「愛してる」はこれからもずっと好きであることの誓い。
つまり
「好き」は今の鮮烈な気持ちを表すストレートな言葉
「愛してる」は、
さまざまな気持ちが積み重なって完成された
これからも続くゆるぎない気持ち
だといえるのではないでしょうか?
医は医なきを期する
医師として
人生の半分の時間を
生きてきました。
医師という仕事に
ゴールはなく
日々勉強の毎日
医学が進歩するから勉強を
しないといけないけど
本当に勉強しないといけないことは
真実の医療の姿を
みつけ、確立するためなんだと
月日が経つにつれて
思うようになりました。
まだまだ道は途中ですが
今、思う医としての道は
「医は医なきを期する」と言うことです。
今までの医学の進歩は
強引すぎて、本質から外れた
少し行き過ぎた方面に進み過ぎている気がします。
効果の有無を追求しすぎて
医学本来の目的
「医は医なきを期する」と言うことを
忘れかけていることに気づいたのです。
つまり
医の目的は
この世から医の力を借りずに
生きられる世にすること。
つまり
医が除去された世の中を
目指していくことが
本当の医療の目的なんだと言うことに
気がついたのです。
医は
病気を治すだけが目的なのではなく
再び病気に冒されないように
導いていくべきなのです。
医者の手を借りずに
病気知らずで生きていくためには
元々持っている
自己抗体の抵抗力や自己治癒力を
生かす道を生き
そのために自分の生きる道を
確実に歩んでいく精神、心を強くする
その生き方ができているかを
見届け、指南するのが
医者として生かしていただいた
僕がたどりついた
僕の医師としての道
医道でもあります。
最後に、もういちど言います。
人のからだには
元々自然治癒力をもって生まれています。
ですから
医療は
病気を治すだけで足ると思うことなく
医なくとも生きられる術をお伝えすることなんです。
それが、僕の目指す
「医は医なきを期する」ということなんです。
安心・安全の世界とは
今回は
「安心・安全」について。
安心・安全は
言葉上はよく似てる気がしますが
実は意味の上では全くちがう言葉何です。
安全とは
危険を取り下げること
または、危険のリスクを下げることです。
安全を達成するためには
誰もが納得できる基準
特に科学に裏打ちされた基準が
求められます。
例えば
シートベルトは車の死亡事故を減らす
とか
感染については
感染源を特定し、感染経路を断てば
感染を抑えることができるなどのような
誰もが納得する科学的根拠が
存在しています。
ですから
データーを示すことで
人々は納得できるのです。
それに対して
”安心”という言葉には
科学的根拠は存在しません。
人々の頭の中に浮かんだイメージ
すなわち
人が作り出した幻なんです。
安心という言葉には
科学根拠というものは存在しません。
そこにあるものは
安心という言葉を発した人が
”安心”したいという願望を表した
言葉なのです。
その言葉は、
こうありあたいという願いを表した
言葉なのです。
どんな行動をすると
どんな効果が起こり
感染リスクが下がるから
安全なんだと考えたらいいのです。
僕も診療中や日常生活でも
よく使ってる言葉ですが
言葉の意味をおかみしめながら
使っていきたいです。
溺愛してもいいのか?
こどもはかわいいもの。
でもかわいくても、溺愛するのは
ちょっと問題だから
厳しく育てないと・・・よいう意見が
昭和世代のおじいちゃん、おばあちゃん
そして
教育パパさんからの声が聞こえてきそう。
溺愛してしまうと
こどもをダメにしてしまうのだろうか?
答えはNO。
いっぱい愛してあげて下さい。
愛された経験は
愛する力になるし
常に強さと工夫して乗り越えていく力が
育まれていく。
ただ、愛することと
過保護とは違うということ。
過保護は、その子をダメにしちゃうのです。
過保護とは
その子が困らないように
経験豊富な親が先回りして
危険を回避するようにしてしまうこと。
我が子が
失敗して、苦しんでいる姿を
見るのはこころが痛むもの。
だから失敗しないようにという行動に走る気持ちは
わからないでもないが・・・・
脳は失敗したことで
知恵やセンスは育まれるということを
覚えていて欲しい。
歩き始めたこどもにとって
大事なことは転ぶこと。
歩く経験より
転んだ経験から多くのことを学ぶ。
だから、見守って
転んだ時に手を差し伸べられるようにしておく。
もし
親の予想を超えて
こける場面をこけずに済んだら
こんなに大きな経験は
大きな成長につながる。
もし予想を超えてできた時
「すごーい」と声をかけるより
「できたね」「よかったね」がいい。
できなかったら
「そんなこともあるよね」という声かけをすると
こどもは次にやる気のスイッチを入れる。
愛の正体
愛については
科学者も、文学者も、哲学者も、宗教学者も
それぞれの立場で考えている。
学者でなくても
誰もが愛の正体について考え
自分なりの答えを持っている人も多いだろう。
でも、その答えも
愛についての永遠の答えとは言えず
胸を張ってこれが愛とはいえない。
僕自身も愛の正体はまだmだわからない、
言えるのは
男女間の彫れあうのは愛とは言えない。
この愛の形は相手を独占したいという
種の保存のなせる技のような気がする。
だから恋する期間が終わると
愛は覚めてしまう。
だから、愛とは
考えることができる人間だからできる行為のような気がする。
何を考えるか?
それは相手の苦しみ、こころの痛みを
相手と同じように感じ
その痛みを癒やすようにすることが
愛の行動ではないだろうか?
だから
痛みを知っている人
苦い体験をたくさんしている人は
愛にあふれる人になれるのだと思う。
愛あふれるこどもになってもらいたいなら
痛みの経験も必要なんです。
正しい栄養の取り方
我々人間のからだを構成する物質は
リンとか鉄とか亜鉛とか水とか
地球の自然界普通に存在する元素から
できています。
生体独特のものというものは
何一つありません。
従って
僕たちのからだは
構成物質がなんであるかより
これらの物質の結びつき方
体内での相互の影響しあってることが
重要だということでは
ないだろうか?
体内の構成物質、元素が
凝集して、外界からの力に
かき乱されないように
その物質が持っているエネルギーの力を
遺憾なく発揮して、利用できることが
重要ではないかと思います。
この成分が不足しがちだから
この栄養、食品をとらないといけないと言うことは
気を使ってる方は
多くいらっしゃいますが
その成分が道のように使われているかを
考えながら
摂取している人は少ないことでしょう。
外見は同じ
水晶、ダイヤモンドにしても
粉々にしてしまうと
水晶は六角に、ダイヤモンドは八角に割れると
言われます。
水晶もダイヤモンドも
構成成分は同じでも
外から受けたエネルギーで状態が
変わるということでしょう。
ですから
同じ食品であっても
例え
からだに悪いというものであっても
あなたの持ってるエネルギーによって
よくも働くこともあり
悪くも働くことにもなると言うことです。
ですから
あなたのからだの細胞
からだを形作っている成分一つ一つが
健康状態で働くためには
健康を意識するだけではなく
趣味、強要、知識、感情や
その人を取り巻く
家庭環境、社会の経済状態を含め
個人生活から社会事情に至るまで
幅広く影響していることを
知っていないといけないし
そして、そこも整えなければ
健康になれないと言うことも
知っていないといけないのです。
ニュートンが
リンゴが落ちたのは引力があるから
と万有引力を発見しました。
僕は思うのです。
確かに万有引力は確かにある。
リンゴが落ちたのは万有引力のせいだけではなく
リンゴからしたら
風の力や、熟した時期など
落ちる時期を感じたから
また、ニュートンに食べて欲しいと思ったなど
落ちるための様々なエネルギーを感じたから
木から落ちたのかもしれませんね。
生きていくためには
様々な力が働いていることを
知らないといけないのだと思います。
人は捜しているものを見つける
この言葉は
12世紀の中世ドイツのキリスト教の神秘家
マイスター・エックハルトのもの。
この言葉のあとに
同時に無を捜すものは、無を見出す
と続く。
これを聞くと
なるほどと思うのです。
人は、捜そうとするもの
見つけようとするものしか見つけられない
というか目に入らないように
できています。
と同時に、若い時には
見つけようとしているものには
意味があるものだと必死に捜すのです。
だから
本当に必要なものが目の前にあっても
見ようともしないし
気づかないものなのです。
今、自分の人生を振り返ると
人生に本当に必要だったのに
気づかずにいたもの
取りこぼしてしまったものがあることに
気づくのです。
目に見えるものだけでなく
目に見えないものを見つける目を養っていく必要がある。
そこに人生の意味、目的そしてどうして死があるかの存在の
答えがあるのかもしれない。
出会いを大切にするということ
よく”出会いを大切にしなさい”と
言われます
”出会いを大切にする”って
どういうことだろう?
人は、日々出会いを重ねて
生きています。
この世にたった一人の
大切な存在同志と出会い。
その人に今日出会ったからといって
次の出会いが必ずあるとも限らない。
次に出会うことは
保障されていない。
だから
出会いは only one
出会いは 一期一会
と言われます。
貴重な出会いだから
出会えたこと
めぐり会えたことを喜び
喜びを感じた瞬間に
出会えた人のしあわせを願う気持ちが生まれ
その人のしあわせを自分でも喜べるようになる
ような気がします。
人との出会いを大切にすると
人の喜びが我が喜びに
感じられるようになるのだと
思います。
出会いを大切にできた時
出会った相手のしあわせを喜び
真心のこもった行動ができるようになります。
でも、
出会ってから時間が経ってくると
お互いになれ合いの気持ちが
出てきてしまいます。
親しくなれば
親しくなるほど
相手の真心のこもった行動が
当たり前になってしまいます。
そして
相手に対して
甘えから色んなことを
望んでしまいます。
それは
出会ったことの
有難さや感謝の気持ちを
忘れてしまったからでは
ないでしょうか。
だから
いつも出会えたしあわせ
この世に生まれてきたしあわせ
を感じながら
仕事をし、生活し
毎日を過ごしていくと
とってもしあわせな毎日が
過ごせるような気がしませんか?
これからも
今まで以上に出会いを大切に。
