「今日の言葉」カテゴリーアーカイブ
最期の1%がよければいい
マザーテレサは
「人生の99%が不幸でも
最期の1%がしあわせならば
その人の人生はしあわせな人生に変わる」
という言葉を残している。
どんな気持ちで
死を迎えられるかが
確かに自分の人生のまとめになるのだと思う。
でも
誰にもその最期の瞬間がいつ訪れるかなんて
わからない。
病気をしていても、いなくても
突然死は訪れる。
だから
生きている今の時間を大切に
生きていくのだと言うことを
マザーテレサは教えてくれているのでしょう。
ストーリーを生きていく
インディアンは物をみた時
そのもの自体よりも
目の前にあるものが
ここにくるまでのストーリーを大事
して生きています。
例えばハンバーガーを食べる時に
次のように考えるそうです。
「それは、ただのハンバーガーじゃないぞ。
そのパンは大地の上で太陽エネルギーを
もらって成長した小麦で作られ、
そのビーフは大地の分身である
草を食べて大きくなった牛が
姿を変えたものだ。
そこに大地の上で虫たちの声を聞きながら
大きくなったレタスを添えてある。
今、
君はそうした大自然を食べている」
そう考えていくと
ものを大事にすることの
思いが変わってくると思います。
目の前にある存在以外に
目に見えない多くのことに
気持ちが向けることができるように
なります。
若い時は
がむしゃらに生きて生きてきました。
今起こっていることに
どのように対処するべきかを
どう乗り越えていくかに
精一杯でした。
でも、今
若い時のことを振り返ることがあると
その奥に感じる
人のやさしさに気づかされます。
様々なストーリーがあったことに
気づかされます。
インディアンの社会では
お年寄りとこどもが大事にされます。
お年寄りはたくさんの「ストーリー」を
生きてきた人で有り
こどもは、これからたくさんのストーリーを
作っていくからだそうです。
今まで感じたストーリーを
残していくことも
これからの僕の仕事なのかもしれない。
なぜ、神は悪人を作ったのか?
神は何も「悪いこと」「悪いもの」を作ったわけではない
神の目から見ると悪はないのです。なぜなら、例えば光があれば
必ず影ができるように、男がいれば女がいるように、この世は②言論、 すなわち2つの相反するものによってできているから。
体があるということは、当然おいしいものも食べたいし
美しくなりたい、もっと生きたいなどの欲望が生まれるのです。
体をもつということは、自ずと不浄のものも生まれてしまうのです 神は体を持つということで起こることも。善も悪も容認した上で
人間を作ったと思うのです。
人間は天地経綸の主体である
①神は霊で有り、霊はエネルギー体なので形をもっていない
②形は持っていないから、この現実世界では何一つできない。
神は無力である
③無力だから、今僕の目の前にあるペン1本も動かすことが
できない。動かせるのは、形(肉体)をもっている者(人間)
である。
だから、神はこの世をよくするために、自分と同じ容姿をもった
人間を作った。
矍鑠(かくしゃく)として生きる
これから年を重ねて生きていく
どう生きていこうかと思った時に
頭に浮かんできた言葉は
「矍鑠(かくしゃく)という言葉です。
矍鑠と言う意味は
いつまでも若いままでいると
いうことではなく
その人が年令相応の
からだと精神と魂とバランスがとれた状態で
生きていくことだと思うのです。
だから60代の生き方
70代の生き方
80代、90代としての生き方をいうのだと思うのです。
決して60代が40代の時のように
生きていくことが60代のかっこいい生き方では
ないということです。
年を重ね、矍鑠と生きていくうちに
その人がなぜ年を重ねているのか
生きる目的が明確になってくるのかもしれません。
愛づる
この言葉は
平安時代の短編集「堤中納言物語」に収められている
「蟲愛づる姫君」に登場でてきます。
このお姫様は、虫が大好き。
毛虫を手のひらにのせて
「かわいい、かわいい」といってるので
まわりの人は蝶は美しいけど
それに比べて毛虫の姿は
「気味が悪い」などというのです。
お姫様は
「この毛虫も蝶になれば
みんな美しいと喜ぶけれど
蝶になった後ははかないいのち。
毛がもじゃもじゃの今の毛虫の時の方が
本当に見事に生きているのです。
だから、この毛虫が愛おしいのです」と
語るのです。
つまりこのお姫様は
生きている見た目の姿ではなく
まさに生きている姿を
見抜き
外見ではなく、生きていく姿を
かわいい、つまり愛したのでしょう。
この話しのように
生きていることを
めづるこころ出向き合うことで
色々な本質が見えてくるような気がします。
年をとること
老いることを愛でだいと思います。
忘れられない日
今日のブログは
5年前の今日書いたブログ
当時はコロナ感染症中であり
自分も闘病中の時期。
忘れてはいけないことなので
今日再び、そのまま掲載させていただきます
今日は3.11
日本人にとって忘れられない日
東日本大震災から
丸9年経ち、10年目を迎える。
震災当日のことは
震災に直接あったわけではないけど
サンタキッズ&ファミリークリニックを開院して
1ヵ月した時
日々四苦八苦しながら過ごしていた時期の出来事であり
当日のことだけは今でも鮮明に記憶に残っている。
そしてあれから
今日でちょうど9年。
9年経った現在の日本、そして世界を
見渡してみると
東日本大震災当時のことが蘇ってくる。
今まさに日本が世界が新型コロナウイルスの災禍に
襲われている。
震災が起きた時のように
テレビは新型コロナウイルスの報道ばかり
プロ野球も相撲などのイベントも自粛、中止。
ディズニーランドなどの施設も休園。
学校も休校となり
経済活動は麻痺し
街からは、人々の笑い声が消えた。
現在の状況は
9年前の震災当日の状況と
全く変わっていない。
人々がこれまで当たり前に行って来た
経済も政治も文化も教育も
ストップされた状態。
それも今回は日本だけでなく
もっと広く全世界に広がっている。
あれから9年経った今
国は「復興創生期間」最後の1年として活動し
一区切りつけようとしている
しかし被災された方々は
被災された方は復興への道はまだ遠いと感じ
風化していくのを恐れている。
東日本大震災に
一区切りしようとしていた時におこった。
新型コロナウイルスの災禍。
現在の
新型コロナウイルスによって惹き起こされた状況は
直接震災にあった、合わないにかかわらず
決して偶然に起こったことではない
気がするのです。
新型コロナウイルスは
東日本大震災の学びが
まだ終わってないことを
伝えようとしている気がするのです。
東日本大震災によって
すべのことがリセットされた。
そこからで学ぶべきことは
元に戻す復興ではなく
全く新しいものを
新しい価値観で一から作り直す
ことだったのかもしれません。
私たちは
また同じことを繰り返そうと
してないだろうか?
今までの価値観に縛られないものに
気づき、変わらなければならない
時に来てるのかもしれません。
コロナウイルスは
東日本大震災の時のように
全てのものをリセットし
そして
我々に“目覚めよ”と言ってる気がする。
これからひとりひとりが今日はこの9年を振り返り
これからの10年後のあるべき世界を地球を
考えて動かないといけない。
政治も
経済も
文化も
教育も
環境も
そして
医療も
問題をそのままにしてしまったら
10年後に
もっと大きな災いが来るような気がするのです。
我々が新型コロナウイルスの真のメッセージに
気づき、行動し始めた時に
きっと
新型コロナウイルスは
普通の風邪のウイルスにまた戻っていく
そんな気がするのです。
居るだけでいい
世界には多くの生物がいます。
人は環境破壊して発展してきたので
様々な問題が起こしてしまいきたことを
悔い改めようと
「地球にやさしく」という言葉を耳にします。
この言葉
耳障りのいい言葉で
そうだと納得しやすい言葉ですが
でも、どこか上から目線からの言葉
のような気がするのです。
我々人間は
地球にやさしくしてもらっているから
今、こうして生きていられるのではないでしょうか?
そう
人間がこの世を支配しているわけでなく
地球に生かさせてもらっているのだと思うのです。
そして
そのことは、人間だけでなくて
どの動物も植物も同じなのです。
草があるから
草を食べていのちを繋ぐ動物がいる。
花の蜜をもらい生きている虫は
花の受粉を運ぶことで
植物も繁栄してきた。
だから
その植物がいるから
生きていることができる。
その動物が植物を食べてくれるから
植物も次の生きる場所を見つけることができる。
地球上には多くの種類の動植物が存在するけど
どの生物も実は
地球全体の生態系を維持するために必要な
存在なんです。
人間も含めて
いきものは「いる」ということが重要なんです。
「何ができる」よりも
「いまここにいる、生きている」ことが
大事なんです。
これは老いても一緒なのだと思います。
人間も含めて
全ての生物は老いていく。
きっと、その老いていくことにも
意味があるはずだと思うのです。
年取っても増えるしあわせ
普通
年をとって老いを感じてくると
できないことが増えてくる気がして
これからの人生を鑑みて
黄昏れてしまう方も多いことでしょう。
どこかしあわせが逃げて言ってしまうような。
本当にそうでしょうか。
年をとると
感じるしあわせは減ってしまうのでしょうか?
それは
年をとると
しあわせが減っていくものだ
思っていませんか?
年をとっても感じるしあわせは
決して減っていないことに気づいて欲しいのです。
若いころは気づかなかったしあわせが
年取ったら気づくことがあるのです。
例えば
年取った人が膝を痛がっている話しを菊と
膝の痛みがないことにしあわせを感じます。
歯が弱くなっても
歯を治療してまたしっかり食べられるようになるだけで
食べられることがしあわせになります。
見えにくくなっても
メガネをかけると小さい文字でも
また読めるようになれば
目の前が明るくなりますよね。
昨日と違った
しあわせを感じる日々が
来るんです。
年をとってからの方が
当たり前のしあわせ
ささやかなしあわせを感じながら
生きていけるのかもしれません
人生の目的は、燃え尽きること
「旅に病んで 夢は枯れ野を 駆け巡る」
この句は松尾芭蕉の辞世の句として
有名ですが
この歌は
芭蕉が死の床にあった時に書いたのではなく
30代の頃に書かれ
予め用意されていた句だとも言われています。
そうだとすると
この句は芭蕉の辞世の句というより
芭蕉の生きていく姿勢・思いが込められているのです。
芭蕉はきっと目的があって
旅を続けて
旅の途中で死してもいいという覚悟だったのでしょう。
僕は旅をするわけでないが
生きている限り
人生という旅をしているのです。
人生の目的は
どう生きていこうとも
最後は芭蕉の覚悟のように
燃え尽きて死ぬを迎えることが
人生の目的、そして最高の生き方だと
芭蕉の句は教えてくれている気がするのです。