投稿者「santa」のアーカイブ
今日も面白く
同じ人生を生きるなら
面白く、楽しく生きたいと思っても
実際にはそんなに人生甘くないと
思っている方も多いことでしょう
楽しい人生を送ろうと思うなら
まずは、今この瞬間が面白くなくては
いけない。
今日が面白く、楽しめれば
明日も面白くなるはず。
そんな日がずっと続けば
昨日よりも今日、今日よりも明日と
楽しい日が続くと共に
成長していること
成長し続けていることに気がつくでしょう。
日々、漫然と生きているだけでは
人生の楽しさは続きません。
毎日面白く過ごすには
自分に刺激を与え、挑戦し
ちょっと困ったり、うんと頑張ったり
困難を乗り越えた時
喜びは大きくなると共に
昨日よりも一段と成長し続けることでしょう。
そして
この人生はいくつになっても続く
死ぬまで成長し続けることができると
僕は思っています。
プラトンが語る病気
プラトンと言えば
誰もが知っている古代ギリシャ時代の
大哲学者で
様々な現代人にも通じる英知を
授けてくれて
人間が今こうして発展してきたのも
彼の考えや教えによるところも大きいと
思います。
そんなプラトンは
病気のことについても
お考えを残しておられます。
そのひとつを今日はご紹介しようと思います。
著書「法律」の中で
病気について語っています。
病気にも患者、医者には2つに階級に分けられると。
つまり
病気に心奪われて
病気の奴隷として生きる人と
病気になっても心は自由である人の
2種類の患者さんがいると。
医者も
病気の奴隷になってる医者は
走り回っている病気の奴隷の傷を治すために
診療所で待って
患者さんの個人的なことについて気にしたり
不満に対してもきく耳を持とうとしない。
そして
自分の持ってる知識が
絶対であるかのように
自分の経験のみで、薬を処方し
暴君のように命令を下すと
また鼻高々に次の患者さんのところに行く。
病気に自由な患者さんのかかる医者は
自分自身も自由人の医者である。
自由人な患者さんと
色々お話をし、その話の中から
患者さんの不調の原因を見つけ出す。
患者さんだけでなく
必要なら家族、友人とも真剣に話して
情報を集め
考えられるすべてのことを
患者さんに伝えてくれるだろう。
医学知識のみで語る医者は
こんな生まれつきの体質や、性格など
ちょっと哲学的な話を患者さんとしているのを
見ると
心の底から笑うかもしれない。
そんなこと
どの論文、教科書にかいてあるんだ?
エビデンスはどこにある・・・なんて
言い出すかもしれない。
でも、目の前の患者さんは
なぜ病気になったかより
今ある苦痛、不安をとってもらいたいと
思って受診されます。
病気だけを診てる医者は
病気だけを治せば満足し
患者さんもそれで満足だと思うんです。
だけど、そのうち気がつくんですね。
また、同じ病気になったとき
同じ症状をくり返すうちに
どうして、病気ばかりするんだろう?
本当の訳を知りたい
病気から心から解放されたいと
思い出すんです。
例え、病気であっても
安心と安らぎを感じる生き方
心から自由でいきたいと
思うことでしょう。
僕も病気だけを治す医者でなく
患者さんが病気であっても
病気でなくても
本当の病気の真意を探り
心安らかに生きられることを目指す
僕自身も病気の奴隷でなく
心自由な医師であり続け体と思います。
人間は
どんな時でも自由なんです。
自由に生きなくてはいけないんです。
あの世はあるのか?
最近
からだのことだけでなく
魂のこと、こころのこと
目に見えないいわゆる
見えないけどこころで感じることについて
話すことも多くなりました。
世間でも
以前に比べて
目に見えない世界があると信じて
胸を張って語られる方、本を出される方など
情報発信される方も増えています。
でも、依然として
目に見えないもの、科学で証明できないことは
信じないというかたも
いらっしゃるのも事実です。
こう語ってる僕は
目に見えないものは、
科学で証明できないものは
信じない、受け入れないというわけではなく
東洋医学で考えている気が
エネルギーの流れであることが
少しずつわかるようになり
今、ナチュラルメディカルセンターで行ってる
メタトロンも
エネルギー、気の医療だと
いうことになります。
僕は
目に見える患者さんを治療する医者ですが
どうして
このように普通目に見えないような医療を
行えるようになったのは
自分自身の次のような考えがあったからなんです。
この世の物は
全て陰と陽、表と裏、男と女というように
全て2つの面、組み合わせによって成り立ったいるんです。
ですから
目に見える部分が全てと言うわけではなく
目に見えない部分もあるというのも
当然だと考えていいのです。
今生きている、今体験できている世界があれば
もう一面
目には見えないけど、もうひとつの世界があるはず。
その世界は、唯物論が中心の現代科学では
まだまだ証明できません。
目に見えないから
証明できていないからという理由だけで
否定するのも、少々暴力的な考えだとも
思えるのです。
我々のからだも
2面性で成り立っているのであれば
目に見える肉体そして
目には見えないけど存在する魂によって
成り立っていると考えてもいいでしょう。
肉体と魂があるならば
今肉体をもって生きる世界
そして
魂がいきる魂の世界が
目には見えないけど確実に存在していると
思っています。
この2つの世界のことを
みんなは
この世、あの世といってるのです。
ですから
魂の生きる世界、あの世はあるのだと
僕は思っています。
魂の世界があるなら
なぜ、今肉体をもって生まれてきたのでしょうか?
それにも、意味があると思っています。
これから
僕の考える魂の世界を
お伝えしようと思ってます。
人間は地球の居候
今年の冬は寒かった。
冬だから寒くなくてはいけないけど
大雪だ、梅の開花が遅れた・・・と
寒さを伝えるニュースが耳ついた冬だった。
今年の夏はどうなる?
昨年以上の暑さになるのか?
天気予報の技術は進んでいても
誰も現時点での確証はもっていない。
科学が進歩して
その日の天気予報はかなり進化して
かなり予報の的中率は上がっていると思うけど。
科学文明はどんなに進んだといっても
自然の前ではまだまだ力が及ばないと
全く無力。
その証拠に
地球のどこかで自然災害が起こっている。
地震、豪雨、山火事、台風、雪崩、火山噴火・・・
自然災害の前では科学の力も及ばない。
自然災害の報道をみる度に
地球が起こってるような気がしてくる。
そして、そう感じる度に
人間は地球の居候なんだと思ってしまう。
人間は地球の居候。
だから
居候しているということを意識して
あるじの機嫌をそこなわないように
気を使いながら暮らすのが
居候の守るべき分であろう。
それなのに人間は
居候であることを忘れ
我が物顔で好き勝手にいきていないだろうか?
山を削り、森の木を切り刻み、海を埋め立て
川、空、海を汚し続け・・・
自分たちの都合のいい哲学を大義名分に
暴れている気がする。
幼い時
祖父が夫と言っていた言葉を思い出す。
「非科学的な所にこそ哲学がある」と。
頭だけで考えるだけでなく
こころの目で見て、考える
時期に今きているのかもしれない。
その人にあった伝え方で
受験シーズンは終わりましたが
試験の時
ある瞬間に閃いて
予想以上に点が取れて
合格したという
ということを経験した人はいるかもしれません。
試験に限らず
人生の中でも
突然頭の中に閃いて
アイデアが生まれて
大きく飛躍したり
難を逃れたことがあるなどという人は
意外に多いかもしれません。
僕も
朝目が覚めたときや
朝神社にお参りをしたときに
ふとこうしたらいい、こうしようと
閃いたり、思いつくことがあります。
思いついた考えって
自分の頭の中で考えついたことだと
思っていましたが
よく、思い出してみると
なんだか人の声が聞こえてるような感覚に
なることもある気がします。
もしかしたら
これって神様?からのメッセージなんて
思ったりすることもあります。
ある方が
実は神様は、その人にメッセージを常に送っている。
そのメッセージに気づくかどうかは
その人次第なんだと。
気のせいと思うか
ただ閃いたと思うか
それを、メッセージと思うかどうかと
いうことを言ってるのだと思います。
また不思議な能力のある人は
目に映像として浮かんでくる人もいるとも
いいます。
僕には
全く映像として閃くことはありません。
自分のこれまでの生き方って
視覚よりも、聴覚に強く影響されやすい。
つまり
美術より音楽のが得意だったし
病気になってからも
自分で演奏するよりも
音楽を聴く、音楽にあふれた時間が
とても心地よいと感じるようになりました。
僕はきっと
ビジュアルよりも
聴覚の影響を受けやすいからなんでしょう
だから
自分の声として、閃くことが多いように思うのです。
僕のひらめきを、分析すると
リラックスしている状態から
音楽を聴いてリラックスしたときに
閃くかもしれません。
ひらめきの理屈を考えたとき
真偽のほどはわかりませんが
ひらめきを
神様から受け取ったとメッセージ思った方が
なんか神秘的で、わくわくしませんか?
健康とは
健康であるとはどういうことでしょうか?
この問いに対する答えは
無数に存在する気がします。
医者でさえ
“健康って何ですか?健康ってどういう意味ですか?”と
尋ねても、答えは様々だと思います。
それは、
健康に対する思い、願いは
人それぞれであることの
表れでないでしょうか。
例えば先天的、後天的であれ、
からだの一部に
不自由な面があった場合でも、
その部分を補い、
サポートする道具や器具があって、
望んだ日常生活ができれば、
きっとその方は
健康的な日々を過ごされていることでしょう。
逆に、
五体満足であっても、
肉体的、精神的な面で問題を抱え、
人生に対して希望や夢を描けない時は、
決して健康であるという事は言えないでしょう。
健康であるためには、
からだに問題がある、なしではなく、
心もからだも元気でないと
健康とは言えないのではないでしょうか?
つまり“心とからだ”のバランスが
とれていて初めて健康と言えるのです。
病気の原因は
からだが病んでいる場合と
心が病んでいる場合の二つがあります。
肉体が病んでいる時の治療法は
数多くあります。
特に現在主流の西洋医学は、
飛躍的な発展を遂げ、
多くの難病を治療することが
できるようになりました。
ただ残念ながら、
西洋医学はからだの悪い臓器や組織中心の医療です。
健康であるためには、
からだとこころのバランスをみることが必要です。
そのために、
これからは
目の前の患者さんの
からだとこころ全体を診る
“全人的医療”を目指して
いかないといけないでしょう
星はいつも耀いている
しあわせになりたいと誰もが思っている
でも、どんな時も、どこにいても
実はしあわせに囲まれて
生きているような気がしています。
空が暗くなると
星が見えてくるように
人生が暗くなると
当たり前の中にある
しあわせが見えてくる
星もしあわせも
見える時も
見えない時も
いつもそこにあることを
忘れないでいたい
先日、還暦を迎えました。
しあわせをしあわせだと気づいたから
しあわせの日々を生きている
だから
生きていることに感謝
今まで出会った全ての人に感謝
これから出会う全ての人に感謝
この世に生をくれた親にご先祖様に感謝
そして家族に感謝
どんな時も
ありがとうの心をを胸に
日々のしあわせをかみしめて
これからも生きていこうとおもいます。
マインドフルネス
最近マインドフルネスという
瞑想法が注目されています。
マインドフルネスとは
”心が満たされている”状態のことを言います。
私達の日々の生活を振り返ったとき、
日々忙しく、慌ただしく過ごし、
頭の中は膨大な量の情報に占拠され、
頭の中も、心もざわつき、
とても”マインドフル”な状態でいることは、
言いがたいでしょう。
このような
”マインドフル”でない状態が続くと、
心の中に不安や心配、恐れなどの感情があふれてきたり、
過去の出来事に縛られたり、
様々な雑念に支配され、
結果として
全てのパフォーマンスが落ちてしまいます。
このようなざわついた心の状態を
意識的に変えていこういう方法が
マインドフルネスという瞑想法です。
つまり、
全ての意識を「今・ここ」集中する、
つまり今生きていることに集中する、
つまり”呼吸”を意識することなのです。
マインドフルネスのやり方ですが
①立っていても、座っていてもかまいません。
背筋を伸ばし、肩の力をぬいて、
半眼でどこか一点を見つめましょう
②ゆったりと気持ちのいい呼吸を呼吸をし
繰り返される呼吸に意識を集中しましょう
③途中で何か雑念を浮かんだら、
雑念だと思い、
また意識を呼吸に戻しましょう。
これを1日5分でも10分でもいいので、
毎日続けるといいです。
マインドフルネスを続けていると、
集中力が増し、創造性や幸福感、
リラックス感が高まり、
自分をよりコントロールすることが
できるようになります。
また「今・ここ」を意識すると、
高血圧や高血糖などの改善、
不安・うつ病などの軽減も期待できます。
ご自身の生活および健康改善のために、
是非一度トライしてみて下さい。
“僕の人生”
悲しいことも
楽しいことも
寂しいことも
胸躍ることも
苦しいことも
すべてぼくの人生
すべて受けとって
めぐりあったことを 喜びに変えて
今日も、
僕の人生を歩いていく
誕生日を迎えて
本日60回目の誕生日を迎えました。
誕生日を迎えたからと行って
急に成長するわけではないし
おめでとうといってもらうことがあっても
昨日までと
変わらない日が、誕生日の今日も続いたのが
正直な実感です。
そんな時
伊勢物語の主人公でもあられる
在原業平の和歌を知った。
「日やあらぬ
春や昔の春ならぬ
我が身ひとつは
もとの身にして」という歌です。
この歌の解釈を
作家高樹のぶ子さんが
こんな風に解釈されています。
「この月は
いつぞやの月とは違うのか。
いや、そんなはずはない。
今年の春は
去年の春と違うのか。
いや、そんなはずもない。
我が身として、昔のわたしと変わらない。
それなのに
なぜ、月も春も昔と違うように思えるのか。
そうか、
わたしの心が変わったのだ」と
の書いています。
そしてあこがれの人を思い
「あのお方がいた頃のしあわせだった
わたしが見た月や感じた春は
あのかたを失った
今おわたしが見る月や感じる春とは
確かに違う。
それほど、わたしは
あの方を思い続けている」と
熱く、熱く
純粋に人を愛する気持ちを
詠った和歌だったんですね。
自然も時間も
いつも雄大な流れの中に
身を置いて僕たちは生きている。
変わっていくのは
自分の身、思いだけである。
だから
昨日の自分の気持ちと違う
自分として生まれ変わった気持ちで
自分の使命、生まれてきた目的に向かって
これからも明日も、明後日も
しっかり歩いて行こうと思います。
僕がどんな時にも
太陽も、風も、花も虫も
変わらず僕を迎えて、いやしてくれ
応援してくれている。
ほんとうに
有り難いことです。
今、この時代、この時に
生きていられることに
本当に感謝です。