「真実の医療」カテゴリーアーカイブ
神頼み
神頼みという言葉があるように
お願い事がある時は
神社を参拝しようと思われる方は
多いことでしょう。
僕も
何か困ったことがあると
神様のことを思い出して
手を合わせることはよくあります。
お願いごとをしながら
なんて僕は都合がいいのだろう。
自分が困ったときだけ
神様のことを思い出して
神様も虫がいいなぁと思わないかなぁと
怒らないかなぁと
神様のご機嫌を損ねないように
しないと思うことがあります。
神様は
確かに心根の美しい人が好きだと
聞いたことがあります。
心根の美しい人しか
願いは神様に聞き入れてもらえないのでしょうか?
腹を立てたこともない
けんかをしたこともない。
僕も
たまには家族とも口論になることもあるし
たまには口から愚痴が
飛び出してしまうこともあります。
こんな僕だったら
神様は相手にしてくれないでしょうか?
神様は
僕たちが考えるよりずっとこころが広いのだと
聞いたことがあります。
だから
何をどうしたこうしたという
細かい行為で神様はその人を
判断しているわけではないらしいです。
だからといって悪口を言っていい
小さいことでもむっとしていい
という訳ではないだろうけど
守ってくれる判断にはならないということなのです。
神様は
もっとその人の心の底を
見てらっしゃるような気がします。
色んなものに対して
思いやりや慈悲の心を持つ。
神様を含め何事に対しても
感謝のこころを忘れない。
そして
神様の前では素直に
なんでも話してみて下さい。
なぜ、今日この願いを叶えたいのか
説明すると
神様はきっと力になってくれますよ。
神様は
きっと人とご縁を結びたがってると思うのです。
今日は七夕
素直な平和な気持ちで過ごしましょう
自分を信じる
人は
困ったことや、
願いがあるとき
病気になったときなど
神社に行って
神様にお願いをするということをします。
神様も
自分が信じている神様に
手を合わせることがほとんどでしょう。
神様に
ご自身の願いを聞いてもらおうとする行為は
決して間違っているわけではなく
悪いことでもありません。
でも
神様に頼むときでも
忘れてはいけないことは
「神様にお願いしたからといって
自分を信じることを減らしてはいけない。」
ということ。
自分を信じる気持ちには
力があるということ。
神様を信じる信仰心と
同じぐらいの力があるということ。
つまり
信じる気持ち、信仰心を
自分に対してもつ
すなわち
神よりも何よりも、まずは
自分自身を信仰するということが
大事なのです
才能が10点満点の10点
でも自分を信じる気持ちが5点の人と
才能が5点しかないけれど
自分を信じる気持ちの人が10点の人は
後者の方が成功するのです。
何事にも成功するコツは
自分自身の力を100%信じられることなのです。
科学の先にあるもの
僕は日々医学という科学を
ベースにした医師を
この世での生業にしています。
患者さんと向き合うときは
人類がもっている
科学の知識を総動員して
患者さんの苦しみから脱せられるように
目的に働いています。
しかし
患者さんの苦しみは多岐にわたり
科学の知識だけでは
説明できない問題に
ぶち当たり、
自分の非力さを突きつけられる場面もある。
そんな時に
我々も含め、自然を動かす
大きな力が働いているのではないかと
感じることがある。
神、宗教という力が
我々の生きる根本に働いていることを
根源にあることを感じる。
あの天才物理学者のホーキング博士は
「宗教というのは必要である
しかし、宇宙の始まりについては
神は必要ない」と
宗教の必要性を認めつつ
科学と宗教をしっかり区別できていることが
この博士の言葉から読み取れる。
自然と共に生き
その自然の力から神を感じるのか?
残された言葉から
とてもこころに響くことばを
投げかけてくれる人々がいる。
それはネイティブ・インディアン。
文明は未発達だからこそ
感じる純粋な言葉にこころ惹かれる。
そんな彼らが宗教について
次のように語っている。
「宗教の出発点は、第一に
自然界をありのままに見て、しかも。
これは駄目だといわないことだ」と。
つまり、自分にとって
不幸だと思えることが起こっても
その不幸をありのままうけいれ
どうして、自分だけ・・・などと嘆かず
これも現実、苦しくても
受け入れようと思うことがまずは大事なのだと。
そして、受け入れた後に
訪れる第二段階
「だけどその宇宙の大きなからくりの中では
この苦しい現実は幻なのだ。
だから、この苦しみはとにかく受け入れよう。
来世こそが本当の世界で
そこでは必ず救済される。
だからこそ、この世で悪いことをするのをやめて
耐え忍び、
来世での救済を待つのです」
科学は
今起こっていることをありのまま受け取る
こと。
そして、受け入れた後
なぜそのことが起こった意味を考えるのに必要なのが
宗教。
ですから
科学の先にあるのが宗教なのでしょうね。
自分に暗示をかける
これまで何度も
言葉には、言霊という
力があるから
いい言葉を話しましょうという
ことは何度もお話しました。
いい言葉を話すと同様に
自分に暗示をかけるのも
言霊と同じように力があるのです。
あなたは
パソコンが苦手
運動が苦手
数学が苦手・・・など
自らの口から上のような苦手意識を
口にしていませんか?
99才まで長生きされた
瀬戸内寂聴さんが
長生きの秘訣について
次のように話されていました。
「なぜ、私は病気をしても
死なないのかと思いを巡らすと
一つの答えがでました。
私は病気が嫌いである。
病気になった自分を見苦しいと思い
一日も早く、その状態から逃れたいと思う。
病気を呼ぶ
自分の老衰も嫌いである。
老体を美しいとは思えない
わが老衰を
これ以上見苦しくならないうちに
死んでしまいたいと思う。
ただ痛い目にあって、苦しんで死ぬのは
ごめんです。
死ぬとき、痛まない、苦しまないように
心臓の手術をしてもらいました。
いつの時も
私はらくな法へと希望して
苦より楽を選んで生きてるから
長生きできているのです」
作家として
なくなる直前まで
多くの言葉、文を残された瀬戸内寂聴さん。
一般のひとが語ることができなかった
生への真実
誰もにも訪れる老いについてのことを
今生きる僕たちに教えてくれています。
病気を嫌いだという生き方
自分を苦しめない、自分を大事にして生きることが
長生きの秘訣かもしれないと
寂聴さんの言の葉を読みながら
自分自身に暗示をかるのでした。
自然現象で感じる神様の慈悲
7月になったばかりなのに
もうすでに梅雨が明け
史上最短、最小の降雨量での
梅雨明けでした。
梅雨明けして日本中で真夏日を記録中
天気の報道と同様に
電力不足を懸念する報道が目につきます。
節電をすすめるけど
なぜか、テレビの視聴時間については
全く触れません。
この報道ちょっと不思議な感じがします。
この夏を乗り切るために
ひとりひとりができることに
取り組まないと
大変な夏になる可能性もありますね。
でも
考えてみると
雨も天候もすべて自然現象
自然現象に対しては人間は無力です。
自然の驚異を思いっきり思い知らされたのが
「東日本大震災と津波」でないでしょうか?
多くの犠牲者がでて
その傷跡はまだまだ癒やされていません。
でも
同じ東北でも
被害が大きかった場所、なかった場所
被害に遭われた方、難を逃れた方も
いらっしゃいます。
そういえば
不思議に被害に合わなかったという
ことを聞いたことがあります。
神社は、きっと昔から
ちょっと高台にあって
地盤の安定しているのが神社の場所。
だから、災害があるときは
神社に逃げるのがいいかな?と
神社っていいところなんだと思ってました。
その時、神社の神様はどうされたのかと
疑問に思われて
東北の神社を回られ、その時の神様とのことを
記された
桜井識子さんの「神仏のなみだ」を
読みました。
桜井さんは
不思議な方で、神様と対話されたことを
本で紹介されています。
この著書で
津波の災禍を逃れた
どの神様も疲れた状態で
言葉も少なく
杖をつき、歩くのも大変な状態
おいなりさんの毛並みもボロボロの状態。
神様が
まさにからだをはって
僕たちを守るために
津波を止めようとし
人を助かるように誘導したそうなんです。
でも
自然の力は
神様の力、神様が力を合わせても
完全に防ぐことできないほど
大きいのです。
そんなこと知っていても
ただ人を救おうと思い
我が身を惜しまずに
防いでくれたんです。
だからからだはボロボロで
そのからだが元に戻るのには
30年~50年はかかるとか?
こんな神様の慈愛の話に触れて
神様に感謝して
手を合わせるしかありません。
今回梅雨があけて
今後自然災害が襲ってくることもあるでしょう。
でも
どんな時も神様は守って下さるのです。
だから
神様に感謝して生きなくてはいけないと
思うのです。
神様を感じて欲しい
世界には
数多くの宗教がありますが
宗教と認められるために
どの宗教も
絶対真理を学び、信じて
日々実践していき、いい人生を過ごそうと
しているのです。
だいたいどの宗教でも
根源的に神様というか
絶対真理は
目に見えないものように作られているようです。
なぜか?目に見えないものを
信じられるのか?
以前、このブログにも書きましたが
目で見て感じるのではなく
惑わされずに感じるもので
あって欲しいからなのでしょう。
実際目に映ってしまうと
各人各様であって
自分勝手に見てしまうからなのだと思うのです。
見てしまうと
自分の都合に合わせて
自分だけの神像を作ってしまう。
ですから
神は人々に
姿を見せないようにしているのでは
ないでしょうか?
神様を感じるのは
音を通して、声で
つまり視覚よりも聴覚を優先に
コンタクトして来られるのでしょう。
見えてしまうと
その見えた神しか信じられなくなる
それだけならいいけど
その姿が頭の中にどっかり腰を据えてしまい
大きな存在の神様が
あなただけに「都合のいい神様」に
作り替えられてしまうかもしれません。
だから
姿をお見せになりません。
でも、神様は確かにあなたのそばにいらっしゃるのです。
あるときは
風となり、蝶となり、
光となり
またあるときは
龍となり、
あなたに語りかけてくるでしょう。
その神様を感じられるように
目で見るのではなく
こころで感じるのが本当の神様なのでしょう。
今も
あなたの側にいらっしゃいますよ。
感じますか?
是非感じて下さい。
自然の中に身を置くと健康になる
音楽には
ひとを癒やす効果があり
魂の薬とも呼ばれ、
不思議な力が宿っている
と古代より信じられていました。
音楽はもともと
鳥のさえずりや虫の声、
小川のせせらぎ、
風で木々が揺れる音など、
自然が奏でる美しいハーモニーに
はじまり
その自然の音を表現しようとして
創られました。
現代に生きる私たちも、
ストレスを感じると
山や森など自然いっぱいの場所にいきたくなり。
行くと心身がリフレッシュして、
また明日から頑張ろうと力が湧いてきます。
それだけ
エネルギーが大自然にはあふれているのです。
実際に
木の香り成分である
「フィトンチッド」には
心身を落ち着かせる効果があります。
小鳥のさえずり、小川のせせらぎの音には
1/fゆらぎという波動ををもっています。
人のからだにも、
脈拍も、呼吸にも
このリズム1/f揺らぎをもっています。
ですから
忙しい現代人でも、
時には大自然に身をゆだねると、
自然の中の1/fゆらぎを
からだいっぱいで感じ
同調すると
これまでのストレスから解放され
からだ全体の健康波長に
満たされる
こころもからだも元気になるのです。
自然の中に身をおくこと
それがこころから健康になる方法
のひとつでしょう
場所はいつも旅先にある
エッセイストであり、
雑誌「暮らしの手帖」の
元編集長でマルチな才能と
生活の中から必要な感覚を拾い出す
研ぎ澄まされた感覚に
憧れ、注目している松浦弥太郎さん監督の
ドキュメンタリー映画
「場所はいつも旅先だった」をみた。
内容は
主人公松浦弥太郎が
旅したサンフランシスコ、タイ、マルセイユ
台湾、メルボルンで
出会い、感じたことを
淡々とナレーションで語られるという
ドラマのような筋書きもなく
飽きたら出発するように
突然場面が変わり
次の目的地に切り替わっていく。
最初は
他人の旅行記だし
ドラマを疑似体験するわけでもなく
何も得られない気がして
最初は退屈な落ち着かない感じがした。
でも
主人公が必ず
食事をするところで人とで会う。
そこできいたたわいもない話の断片を
繰り返し聞いてる内に
自分も話をきいてるような気がした。
僕に話しかけられているような気がしてきた。
共に食事をする時って
誰もが無防備になるのだろう。
一緒に食事をすると
国籍も関係なく仲間になれるのだろう。
そして
僕もいつのまにか
旅人になって出会いを疑似体験していた。
松浦自身も
忘れていたひとりの自分に出会うために歩く
まるで「針のない時計」のような旅だった
と旅を振り返って語られている。
この映画をみて
この松浦さんの言葉をきいて
自分も旅をはじめていることに気づいた。
松浦さんとはちがう
世界を回る旅に旅立とうとしている
ことに気づいた。
どんな人に会えるか?
僕を待っている人に必ず会う旅が
今から始まる。
松浦さんは
朝早くか夜遅く
人の活動が収まった時間に動くと
そして高いところに上がって街を
見回すと言われていた。
そして
迷惑はかけたくないから
ひとりで旅に出るとも語っていた。
これも
僕の旅のスタイルと一緒なんだ。
それでいい
さぁ、旅を続けなさいと
背中を押された映画だった。
これも・・・何かの縁
聖人君主でなくても
毎日清く正しく生きたいと思っても
腹を立てることもある
けんかをしてしまうこともある。
悪口を言ってしまうこともある。
なぜかこころ落ち着かず
冷たい態度をとってしまうこと
ってありませんか?
僕も
家庭内だけでなく
仕事中であって、
いけないと思っても
こころがかき乱されて
思いもよらない言葉が口から出てしまうこともあり
ひどく落ち込んでしまうこともある。
そんな自分に気づき
すぐ修正しようするけど
時はすでに遅し。って言う場面は
日々の中で度々あり
すぐ修正できて
一瞬の気持ちだけでよかったと思うことあるけど
神様は全てご存じ。
こんなこころじゃ怒られちゃうと思うけど
そんな時も
神様の優しい眼差しを感じるんですよね。
神様は
人間がそんな弱いこころを
攻めることはありません。
きっと仕方がないと思ってくれているのでしょう。
見ているのは、その人の真の人間性なんです。
悪口を言ったから
また腹を立ててしまったからといって
神様は決して見捨てることはないのです。
そんな行動よりも
あなた自身の本質のこころ。
つまり
こころを正しくもつ
色々なものに対して思いやりや慈悲のこころをもつ
神仏に感謝を忘れない
謙虚なこころをもつなど
人間の本質がぶれてなければ
例え聖人君主のように生きてなくても
神様はあなたを見捨てたりしないのです。
だからといって
悪口を言い回っていいわけではありません。
その言葉があなたのこころのどこからでているかを
神様はみているのだと思うのです。
わくわくして生きると人生が好転する
今世の中は
どこか閉鎖的な、息苦しさを感じる人は
多いのではないのでしょうか?
その閉鎖的なことは
社会だけのことではなく
自分のこころにも
忍び込んでいるのではないでしょうか?
だから
ご自身の周りの環境に
不平不満をいう人も多く
職場の人間関係に悩み
家庭不和に悩み
こどもたちでさえ
友人や先生、親との関係に
悩む人は後を絶ちません。
みんなこのマイナスの人間関係を
打破するために
コミュニケーション法を学んだり
相手のこころを知ろうと
心理学を学ばれている人も
多いことでしょう。
その勉強で
問題が解決すればいいけど
勉強したことを実践することって
それも相手との関係を修復することって
一筋縄ではいかないと思われていることは
多いことでしょう。
僕は
人間関係に悩んだときには
人を変ることはできない
人を変えると思うな
自分が変わろうと思います。
その人の関係のエネルギー
つまり自分にとって
マイナナスエネルギーを
減らすことに視点を置くよりも
自分が楽しいことをする
プラスエネルギーを増やすことに
重点を置けばいいと思います。
お仕事で悩むのであれば
お仕事が終わったアフター5や
休みの日に
自分が楽しめる時間を作る方が
自分が楽しむ方が
相手に費やすよりも
ずっと楽になりませんか?
いわゆる
自分のワクワクできる時間を瞬間を
どんどん増やしていくことが
あなたの人間関係を変え
あなたの人生を好転することになるのです。