「今日の言葉」カテゴリーアーカイブ
カルマを乗り越える生き方
我々は
成長するためにこの世に生をうけて
今、現世に生きているとしたら
その目的は
魂の成長するためだと
僕は考えています。
患者さんとお話しすると
この症状は
遺伝だからしかたがないと
半ば諦めているように
お話しされる方がいます。
野口晴哉先生が
「親からもらったからだを10とすると
良いところは3で
悪いところは7である。
しかもこの7をどうやっても治らない。
だから
3の良いところを磨いている内に
7の悪いところがスッと消える」
というのです。
僕たちは
過去を背負っていると考えると
背負ったマイナス面を嘆き、否定するより
良いところをいかして生ききった人が
光り輝く人生を
過ごせると言われている気がします。
こよいは
自分の良いところを
しっかり理解、把握して
いかして過ごす生き方を
することが
この世に背負って生まれた
カルマを解消することになるのでしょうね。
これが
カルマを解消する生き方
誰にも良いところをもているのです
自信をもって
今日も過ごしましょう
風の時代
最近よく聴かれる言葉の一つに
風の時代。
風の時代ってなんでしょう。
風の時代という考え方は
西洋占星術の世界で
使われている考え方なんです。
西洋占星術の考え方なので
星の動きと星座の位置関係で
社会の動きを見るんですね。
風の時代は
木星と土星が大接近する時の
星座の位置とそこの星座の場で
判断するもので
これまでは
牡牛座、乙女座、山羊座の場にあり
地(土)の時代であり
200年以上続いたそうで
それが
令和2年12月22日から
水瓶座の場に入り
風の時代に入ったというのです。
風の時代になると
これまでの時代と何がどう変わるかと言えば
物質中心→精神中止
お金を求める→体験、情報、人脈を求める
モノを持つことが大事→モノは必要なだけあればいい
蓄積型→循環型
経済優先→いのち優先
縦社会(ピラミッド型)→ 横社会
短期的利益優先→長期的発展優先
外形的なしあわせ→内面的なしあわせ
という風に
世の中の価値観が変わるそうです。
占星術的、占い的な考え方ですが
前時代の地の時代に入ったときには
資本主義の原動力にとなった
産業革命が始まってました。
これからの
変わるであろうキーワードを眺めているとコロナの時代に
最近使われる、変わってきていると感じる
キーワードがならんでいませんか?
僕は
風の時代に入ったことを
肌で感じたのは
2021年の東京オリンピックだったと思います。
それまでのオリンピックの姿とは
全く違う形で行われたオリンピックでした。
地の時代を象徴しているオリンピックが
風の時代に入ったことを
全世界に示した
それが日本から発信したことに
なにか深い意味があった気がする今日この頃です。
中今を生きる
どんな時代になっても
大切なのは中今で生きることだと思う。
つまり
今に集中して生きること。
過去に囚われることなく
たとえどんな過去であっても
今があるのは、過去を生きてこれたおかげ。
だから
今この瞬間と同時に
過去にも感謝し
過去を喜び
過去を懐かしむ心をもって
生きたら、もっといい人生を生きられる。
そうしたら
未来を心配しなくてもいい
今というこの瞬間を大切に生きることができれば
未来が訪れるのが楽しみになり
未来の喜びへとつながっていく。
今何も心配する人はいない
悔いているのは過去のこと
憂えているのは未来のこと。
生きているのは
過去でもなく、未来でもない
今という時間だけ。
悔いる気持ち
憂える気持ちは
心だけでなく
人の体も壊してしまいます。
糖尿病で糖質制限中
ケーキをどうしても食べたくて
半分だけ食べてしまったとしたら・・・
罪悪感をもって食べたてしまうか?
とても美味しいといって食べたか?
この二つで結果は」おおちがい。
食べたことを悔やめば
病気は進行してしまうでしょう。
運動不足を指摘されて
きつい運動をイヤイヤするのと
5分でも軽い運動をした後
いい汗かいた?と思えるたら
からだの調子はずっとよくなるでしょう
その時を
喜んだか、苦に思ったかで
その後の結果はきっと大きく変わってくる。
病気を進行させるか
健康に近づけるかは
その時の心ひとつにかかっていても
不思議ではない
人には
いつの日か死は平等に訪れる。
その日を
どんな風に迎えるかは
今の自分自身にかかっている。
中今に生きることの大切さを
教えてくれる言葉。
今を大切に
今日も、明日も生きていきましょう。
ミネルバのふくろうは日暮れに飛び立つ
この言葉は
ドイツの有名哲学者、ヘーゲルの言葉です。
ふくろうは、ギリシャ神話では
女神アテネ(ミネルバ)の象徴であり
知恵や技芸、学問などをつかさどると言われます。
そして
ふくろうは黄昏時から
活動を始めるのです。
まさに
これから人生の黄昏時を迎えた
還暦を迎えた人に送られた言葉では
ないでしょうか?
このヘーゲルの言葉が示すように
黄昏時にこそ知恵が飛び立つ。
つまり
人間の知性は
年をとっても決して衰えることなく
年おいて、あらゆる所に衰えがきていても
体の機能が落ちても
不思議なことに
むしろ知性は衰えることなく
研ぎ済ませれていくのです。
これはなぜなのか?
きっと知性は
今までの経験、知恵がコネあって
化学反応を次々起こしていってるのでは
ないでしょうか。
知識の量、経験値は
年をとれば増えていくのです。
これが・・・・
ヘーゲルのいった言葉
そして、今僕の生き方を支えてくれる言葉です。
『よかれかし』の心を持って
以前、美智子上皇皇后様が
「皇室は祈りでありたい」と
仰られたことがありました。
その本意を記者が尋ねると
「国の道を選ぶような判断やその方法は
その国々の人々の
叡智であり判断であると思います。
それに対して皇室というのは
常に『よかれかし』と思って
祈り続けるのが大事なのかと・・・・」と
お答えになられました。
『よかれかし』とは
『よくなりますように』という
意味の古語のようです。
医師は
その時、その時代に
できる最高、最善の叡智を持って
患者さんを救うために
日夜患者さんと共に戦っています。
しかし、
どんな時代になっても
どんな患者さんが来られても
どんなに医学が進歩したとしても
どんな高度な技術を身につけていたとしても
美智子様のお言葉のように
いつ何時も「よかれし」(「よくなりますように」)という
願いを持って祈る心がなければ
患者さんを心から救う事は出来ないのだと
思います。
世の中の病に苦しむ全ての人が
「よかれかし」
でありますように。
マズロー「欲求五段階説」の続き
人間はみんな欲を抱えて生き
欲を満たそうと生きています。
マズローは人間の欲を五段階に分類しています。
まず、食べたい、寝たいという本能的欲求をみたそうとします。 これを生理的欲求といいます。
この生理的欲求が満たされると次に
家や健康など安全な暮らしを求めます
これが安全欲求です。
これが満たされると
集団に属したり、仲間が欲しくなります。
これを社会的欲求といいます。
この三つの段階がクリアされると
次は他者にみとめられたいという
尊厳的欲求がおこり
最後に自己実現欲求に至るのです。
これがマズローの提唱された
欲求五段階説です。
人間の欲の段階をよく分析されていて
社会で起こる問題を考えた時
どの段階の欲求が実現できずに起こってるのか
その原因を探るにはいい方法になっています。
これは有名ななので
ご存じの方も多いでしょうが
マズローはこの続きがあって
亡くなる前に
「自己実現欲求よりも高い次元の欲求がある」ことに
気づいたそうですが
それが何かの答えを残さずに亡くなられました。
この最上位の欲求は
「無欲」ということでないでしょうか?
人は自分を認められると
認めてくれた人、社会に対して恩返しをしたいと
考えるようになります。
その時に自分の欲を追求することは横に置いているはずです。
働くのが自分の欲を捨て去る
無欲ということだと思うのです。
自分の欲求を高めきったときに
自分という小さな器から離れて
もっと大きなものを望もうとするのです。
そして、その域に達した時に
真に喜び、いのちが喜び
天命を知るのかもしれません。
全ての欲を克服できたと思われる
スティーブ・ジョブスが膵臓癌の手術ごに残した言葉
「死は生命にとって唯一にして最高の発明だ」
きっとマズローの6段階の欲に到達していたのでしょう。
究極の欲は無欲だと思うのです。
迷惑をかけることを怖れずに
年をとることを
なぜ、怖れるかというと
よく聞かれるのは
「迷惑をかけたくない」
「こどもに迷惑をかけたくない」などという
声はよく聞きます。
人に迷惑をかけずに
生きたいという気持ちは
僕にもあるし、迷惑をかけていると思うと
大変恐縮してしまいます。
でも
夜中には年取った時だけでなく
一般的にも迷惑行為ということが
よくあります。
迷惑な行為は
自分が迷惑な行為だと認定しない限りは
迷惑とはカウントされないということを
忘れてはいけないのです。
人間の脳はかなり勝手なもので
自分が認識したくないものは
スルーできるようになっています。
ですから
「迷惑をかけている」と認識しないように生きれば
心穏やかに生きられるのでしょうか?
イヤイヤ、そんな生き方は
欺瞞であるのはいうまでもないことでしょう。
大体、迷惑をかけずに生きることって
人間はできるのでしょうか?
生まれてから、ずっと、誰かのお世話になって
生きることができていますし
究極、地球に対しては
迷惑ばかりかけているのは間違いないこと。
だから迷惑をかけずに生きることはできないと
自覚をして
だからこそ、感謝の気持ちを忘れずに
「ありがとう」の言葉とともに生きることが大事だと思うのです。
いのちは地球より重い
僕は
人間が生きていくには2つの面が
必要であると思います。
ひとつは
衣食住という動物的欲望を満たす
いわゆる生活面を重視する面「生活体系」
そして、もうひとつは
真善美を求めて行動する人格を形成する
いわゆる生命を重視する面「生命体系」
この両面から
いのちは支えられていると思います。
もう少し具体的に言うと
生活体系とは、いのちを支えている活動のこと
つまり
利益や欲望を充足させるという経済法則を重視したもの
これに対して生命体系とは
いのちは尊いものだというような
親子のつながり、日本で生まれたことによって
培われた道徳的なつながりとも言えるもの
この2つの体系、価値観の中で
僕たちのいのちは支えられ
生きているのだと
改めて自覚させられた気がします。
昭和50年代に
日本赤軍がダッカで飛行機をハイジャックし
身代金などを要求したダッカ事件がありました。
その時の総理は
人間のいのちは、地球よりも重い」と
様々な批判を交わして
16億もの身代金を決断して
乗員乗客のいのちを救ったと聞きました。
ダッカ事件から時は流れ
時代は昭和から平成、令和と変わり
その間平和で豊かな時代を過ごしすぎて
明日の喜びより、今日のパンを求める生き方を
してきた日本人の体質が
決断できなくさせているような気がします。
人はパンがなくては生きていけないけど
パンを美味しく、そして有り難いと思える気持ちを持って
僕たちは生きていかなければならないってことに
気づき、その気持ちを大事にして
これからは生きていかなければならないのでしょうね。
悪人も善人もない
人間には
悪人でも善人もないと思うのです。
でも、実際人は
誰もが大なり小なりがあるとしても
いいことだってするし、ちょっと悪いことだって
することもあると思います。
罪になるかならないかは
ごく単純に、その時
思慮がかけていたかどうかってことに
なるのではないでしょうか?
人の道を踏み外してしまうのは
その人が悪人だからということではなく
愚かさではないでしょうか?
愚かな行為をしてしまうのは
ふとした瞬間、こころを愚かさに支配されてしまった
からではないでしょうか?
人間にはいい心も悪いこころもある。
罪を犯してしまうのは
その人が悪人だからではなく
その人をそうさせたことを汲み取らないと
おぇないのだと思うのです。
だから
人を責めてはいけないのだと思うのです。
日々是好日
この言葉は禅の言葉で
「どんな一日もよい日だ」という意味だと
解釈されますが
今日、今がいい日だ、今日が最良の一日だとすると
明日もいい日、明後日も、明明後日もいい日になるし
逆に
昨日も、一昨日も最高の日を生きてきたとしたならば
毎日を好日で生きていたら
生きている日にいい日も悪い日もないのでは
ないでしょうか?
だから
今日が好日か不好日かということには
意味がないということを言っているのではないでしょうか?
要は
毎日がよい日なら、もはやいいも悪いもないという意味を
この禅語はいいているのではないでしょうか?
実はこの禅語の前には、こんな言葉があります。
「十五日以前は、則ち問わず。
十五日以降は則ち如何」
「十五日以前のことは問わないが
十五日以降のことはどうだ?」という意味です。
これは
以前と以後を
人生の前半と後半と解釈することもできます。
この言葉は
人生に価値のある時とない時があるのか?
と問いかけていると思うのです。
