年別アーカイブ: 2025

フロイトとアドラー

毎日健康上悩みを解決しようと
こどもからおとなまで
様々なかたが来院されます。

そして
お話を聞いてると
その人の考え方が2種類あることに
感じます。

それは
前向きに考えるかどうか
物事をポジティブに捉えれるかどうかが
大きいなと思います。

ネガティブに考えてしまう人も
出来るだけ前向き、ポジティブに考えた方が
いいと思って
お話しするのですが
中々一筋縄ではいけません。

そんな時
心理学者のユング、フロイトの考え方
それと
アドラーの心理学のちがいの話を聞きました。
そこで、今日は
フロイトとアドラーの心理学のちがいを
お話しようと思います。

フロイトは「原因論」と言われ
過去にこういう原因と考えられることが
合ったので
今があるのだ。

つまり
今こうなったことの原因を探し
その原因をみつけて
原因を改善しようとします。

それに対して
アドラーは「目的論」と言われ
その人の今の状態は
その人が選んだことでしょう
ということなのです。

全ての原因を
自分以外の外に求めるのではなくて
自分自身に求めているという
ことです。

日頃診察しても
この2つのパターンを
感じることがよくあります。

病気などの何かのからだの不調を感じたときに
普通は
なんでこうなったんだろうと考え
食事、運動が悪い
寝れなかったから
仕事のストレス
人間関係の不調が
あるから起こったんじゃないかと
一生懸命
その原因だけを探そうとします、

アドラー的に考えると
今この状態にいようとするのは
自分が選んだこと。
何のために
自分はこの状態を選ぼうとしたのだろう
この選んだことで
どんなことを考え、
その考えたことで
自分の気持ちが変わってきてないだろうか?
今、こういう風に気づくために
この不調という時間が
必要になったのだろうか?
などなど
様々の内なる原因に気づき、
変化が始まるのです。

原因がわかったとしても
それを自分で変えようとしないと
決して先には進めませんよね。

どんな状態でも
原因は自分自身の中に答えがある
そんな気がします。

そう思えた瞬間に
人は変われるのかもしれませんね。

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「ハーメルンの笛吹き男」の真実

グリム童話の話し。
当時ネズミが街中にあふれていて
困った街の人が
男にネズミを追い払ってくれたら
報酬を与えようと約束。
男は、街中の全ネズミを笛を吹いて
おびき出して海へと導きネズミを退治した。
しかし、おとなは報酬の支払いを拒否したのです。
時間が経ち、再び男が待ちにあらわれ
今度は笛を吹くと
街中の全こどもたちを連れ出してしまったのです。

こどもを奪われるという話しは
物語だけの話しだけではなく
実際にもあるのです。

例えば
中国で始皇帝の時代
千人を超えるこどもを仙人に捧げて
不老長寿の薬を選ろうとしたとか。
ヨーロッパでも
十字軍に数千人のこどもたちが
マルセイユまで運ばれ、その後の足取りは不明だとか。

こどもが
おとなのエゴに巻き込まれて
犠牲になることはあってはならない。

このことは決して過去だけの話ではなく
現代においても
ガザのこどもたちが飢餓状態にあるかという
情報が錯綜している。

お金よりも、経済よりも
こどもたのいのちを守ることが大事。
どんな時代になっても、決して
こどもたちがおとなの犠牲になることは
許されないのです。

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魂の痛み

我が国の
ホスピス医学の第一人者であり
現在もホスピス医学の第一線で活躍中である
柏木哲夫医師の
インタビューを聞いたことがある。

2500名以上の患者さんを看取り
患者さんの死の瞬間に向き合い
その瞬間に感じた思いを
語られた言葉は
とても重く、深く
でも患者さんの気持ちに寄り添えてるかと
苦悩にも満ちた日々から
感じた確かな言葉が
僕の心にも重くのしかかってきた。

2500人以上看取った患者さんで
忘れられない2名の患者さんを
紹介された。

ひとりは
大社長さんで末期の膵臓癌で入院されてきた患者さん。
その患者さんは
富も名声も、いわゆる生きているうちに
手に入れられる全てのものを
文字通り手にされててた患者さん。
その患者さんは、柏木先生に
不安だ、死ぬのが怖い
この不安をとることを必死で願われたけど
医学では痛みをとることはできても
こころの不安をとることはできなかった。
患者さんの不安をとってあげることができず
看取った患者さん。

もうひとりは
末期の肺がんで入院されてきた患者さんは。
その患者さんはクリスチャンで
自分の死期を悟られてるのでしょう。
2週間で神様のところに行きますが
それまでの間この胸の苦しさだけを
とって下さいとお願いされたそうです。
その患者さんに治療をし
神様もお恵みがあったのでしょうか
3日後には息苦しさもなくなり
2週間後に逝かれたそうですが
最後の言葉は「行ってきますね」と言われ
安らかに旅立たれたそうです。

人はなくなるときは
生きているうちに
身につけていたものが
全て剥げ落ちて
魂だけの状態となって
旅立つのかもしれません。

死ぬときは
この世で手に入れたものは
何一つもって逝かれません。
持って行けるものは
魂の部分だけ。

人は
魂の修行をしに
この世に生まれたとしたなら
満足した、望み通りの修行ができて
平穏な魂の状態で
魂の世界に戻れる
(死を迎える)生き方をすることを
目指さなければいけないんでしょう。

魂の求める生き方とは
自分でしかわかりませんが
自分に素直に生きていくことで
気がつくのかもしれませんね。

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健康って?

健康ってどういうこと
だと思いますか?

からだに異常が起きた時
体内では
ホルモンや免疫細胞、神経が異常をキャッチし
正常な状態に戻そうとします。

この働きをホメオタシス(恒常性)
と生物学的に言いますが・・・・

このホメオタシスの働きで
からだは正常に保たれています。
これが健康な状態。

ホメオタシスの働きに異常があり
正常な状態を保てなくなった時に
様々な症状を自覚することになります。
これが
病気の状態

どんな些細な変化が起きても
自覚症状がなくても
からだは敏感に異常を察知し
元の正常な状態に戻そうと
ホメオタシスが働いて
健康を維持しようとしています。

つまり
病気になった時に
人間誰もが持っている
自分で自分を治す力が
必ず働いているのです。

この力が“自然治癒力”の
正体です。

ですから
病気を治しているのは
医者でも薬でも、
どんな代替治療でもなく
自分自身、
自分自身の持っている治癒力
なのです。

そして、
病気が治ったのは
症状がなくなったことではなく
からだの状態が
症状の出る前の状態に戻ること。
そして
その治った状態を維持することが
“健康”と言うのだと
僕は思います。

☆ 赤ちゃんのヤギと遊んできました。
鳴き声も歩いても、食べても何をしていても
かわいい。
動物でも赤ちゃんって、可愛くて
やっぱり天使ですね。

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足の痛みが伝えることは?

メタトロンをすると
日頃気づかないことを
教えてくれる。
その気づきをほっておくと
からだは
もっと強いサインとして
症状をだすことがある。

医師としては
患者さんの症状という苦悩を
取り除こうと
努力するが
これで止まってはいけない。
なぜ、その症状が起こったかも
考え、改善する働きをしないと
本当に治ったとは言えないし
治したとも言えない。

だから
医学的アプローチだけでなく
様々な角度から考えていかないと行けない。

先日
歩けないほどの
足の痛みがあると受診された患者さん。
足を見ると
足の親指が発赤、腫脹し
少し動かしただけでも
痛みが走り、歩くことも苦悩の状態。
骨には異常がない。
痛風発作?なども疑ったが
血液検査も異常なし。

検査しても
異常がないことは
度々経験することであり
そのようなときは
原因がなにより
今苦痛の症状をとることに成り
局所の炎症を取り除く治療を行った。

1週間後再来され
局所の炎症は改善され
痛みも少なくし
歩きやすくなっていたよう。
なのに・・・・
患者さんは
痛みが取れたはずなのに
ちょっと悲しそう、苦しそうな笑顔
なんです。

足の原因の可能性について
もっている医学知識を総動員して
説明したが
患者さんの表情は曇ったまま。
なぜ??

患者さんと
その後診察をくり返しているうちに
夕方になると
涙があふれて来るんです。
患者さんは、
コロナの状況になって
目標を失って
目標探すと同時にからだを休めるために
故郷に戻ってきて
ふるさとの力で
からだは癒やされたけど・・・
こころが癒やされてなかったのですね。

これからの未来に対して
何をするべきか迷いに迷った時期
足の不調も相まって
前に進めなくなったんですね。

ですから
こころの進めない状況を
足の不調が教えてくれているんですね。

前に進んでごらん
一歩前に踏み出してみてごらん
動き出せば
足の痛みも忘れるから
前に一歩踏み出して・・・と
応援してくれている気がしました。

そう、患者さんに
伝えました。

今後
患者さんが前に歩く姿を
後ろからしっかり支えようと思います。

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どのように生きるかは、結局・・・・

誰もが
これからどんな風に生きようかって
考える時があると思う。
高校生も、大学生も、社会人になっても
結婚しても、親になっても、
おじいちゃんになっても・・・・
年齢に関係なく、
誰もがどんな風に生きようか
と考える瞬間があるのだと思う。

生きている先に必ずあるものは”死”
誰にでも最後は”死”が訪れる
誰もが”死”に向かって毎日生きている
つまり
今生きていると言うことは
例外なく”死の途中である”という事実。

だから
生き方を考えることは
実は、どんな風に死を迎えると
言うことなのかもしれない

今どんなに成功してても
今どんなに絶望の淵にいても
今どんなにしあわせであっても
今どんなに不しあわせだと思っても
それは
今は、その人の最終結果ではなく
まだ人生の途中段階ということ。

「死に物狂いで頑張れ」
「死ぬ気になってやれ」なんて
檄を飛ばすことがある。
でも、今どんな風に生きていても
次の瞬間に死ぬかもしれないから
毎日が命がけの連続
誰もが毎日
死ぬつもりで頑張っている状態じゃないか

今生活にもがき苦しみ過ごしていたとしても
今だらだらとした生活をしていたとしても
この瞬間を精一杯生きていることに
なるんだと思う。

この状態が死ぬまで続けたいのか
この状態のまま死を迎えたいのか

どんな死を迎えたいのか?を考え
それに向かって生きることが
生き方を考えると言うことかもしれないと

どのような死をを迎えたいのか?

東京へと向かう新幹線の中
次々風景が変わる車窓を眺めながら
ふと”生きる”について考えてみました

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運動会 変わる時代の写し鏡

10月10日はスポーッの日でした。
スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培い
健康で活力のある社会を戦う日とされ
2020年までは「体育の日」。

この日は61年前の東京オリンピックの開催日。
どうしてこの日が選ばれたかというと
一番晴れの日が多い日だから・・・と聞いたことがあります。

だから
僕が小学校の頃は
この日は休日で運動会がおこなわれた日でした。
運動会は両親がお弁当をもって
応援に来てくれる中
徒競走、リレー、騎馬戦、ダンス、組み体操などの
競技が華々しくおこなわれていました。
そして、リレーや徒競走、優勝チーム
それを引っ張る応援団など
新たなヒーローが現れてみなが歓喜する行事だったはずが・・・

10/13朝日新聞の一面には
「運動会 変わる時代の写し鏡」のみだし
そう、あの頃の運動会とは違うようなのです・
新聞には
「個性を大事にという自由化路線の中
パラドキシカル(逆説的)とも言える現象が
起きているというのです。

花形競技である”徒競走”が
足の遅いこどもにとっては
恥をかかされトラウマとなる場になるという
議論がおこり
東京の37自治体のうち21自治体が
徒競走に順位をつけないという。

確かに、人間には
能力の差があり、得意不得意があるから
徒競走では1等からビリまで生じる。
毎年1等の子もいれば、ビリの子もいるのは確か。
きっとビリの子は走りたくない子もいた。

でも、周りのおとな達、先生は
順番にはを言う前に
頑張ったこと、去年よりもかっこよく走れたこと
一生懸命の姿をみて褒めてくれた。
だから、次の年も頑張ろうと思ったものだ。

順番にこだわりすぎるのはおとな側ではないだろうか?
父親だけでなく母親も仕事があり
先生方の”働き方改革”の影響だろうか
プログラムも減り
午前中で終了・楽しかった家族のお弁当の時間もないという。

10月でもまだ、真夏のような日もあり
気候変動も影響しているでしょうが・・・

歴史を振り返れば
明治時代は学校を楽しい所だと知ってもらいたくて
はじまった運動会。
その後社会とつながるため、そして
集団で取り込む大切さをしるため
と運動会の意義が変わってきた。

もし運動会がなくなったら
不登校のこどもが増え
個人主義が進む
そんな日本にこどもたちが生きていくのだろうか?
そう考え過ぎるのは、考えすぎだろうか

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人を変えるよりも自分を改める

人は、自分が行動したことで
学ぶことは多い。

自分のやったこと
自分の思い、要求に
相手にストレートに伝わったがために
相手から逆に
嫌悪感、拒絶、怒りを生み
しっぺ返しを受けたとしても
自分のわがままに気がつかされ
学ばされることが多い

逆に
周囲の人にあわせている時や
他人に求めている時は
自分の思い通りにならないと
不満を募らせてしまう。

この問題さえおこらなければ
この子が、もっと頑張ってくれれば
会社がもっと協力してくれたら
・・・・なんて
誰かのせいにして、
思わず不満を爆発させてしまう。

でも、
不満を爆発させたところで
実は何もかわらないんですよね。

こんな時はの対処法は
ただひとつ。
それは
”自分自身を変える”ことで
目の前の扉が開く。

”人を改めさせよう、変えようと思った時は
まず自分が改め、変わればよい”と
倫理法人会の丸山敏雄先生はおっしゃっています。

こどもに手を焼くのは
親に問題がある。
親自身の生活をただし
夫婦愛和で日々暮らせば
こどもは自然に立ち直ってくる。

”自分が正しい、相手がまちがっている”と
いう態度だと
永遠に平行線のまま、何もかわらない。

相手の心を温かくしたいなら
自分の心に火を灯してみましょう。

☆ 今、福岡にいます。雨はこちらは降ってないですけど
台風の動きとともに、雨がとっても心配ですね。
我が家はこれから熊本、えびの高原パワースポット巡りです。

写真は、俺の割烹で食べた。唐揚げ。唐揚げを注文すると
丸ごと一羽出てきて、最初びっくりしたけど、次の瞬間
かぶりついてた肉食家族です

それでは、天気が心配ですけど、
みなさん、いい一日をお過ごしください。

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カルマをもって生まれてきた

メタトロンや健康診断の結果を
患者さんとみながら
結果を踏まえて
これからどんなことに気をつけて
どのように生活しようかという
話になります。

自分自身で気をつけられることって
食べること
からだを動かすこと
時間の使い方
などなど
色々あって、
生活の中でのちょっとした
心がけになるのだけれど
中々実行するのは難しい。
ことを
自分も含めて
実感されている方も多いことでしょう。

そんな時に
立川談志三が残した
人間の業の肯定という言葉を知った。
その通りだと思ったので
ここに紹介したいと思います。

「人間はすごい。
同時に人間というのは
どうしようもない。
でも、人間っていい」

「酒が人間をダメにするんじゃない
人間というのは
元々ダメなものなんだと
酒が教えてくれる。
ケーキが人間を太らせるんじゃない。
人間の意思の弱さが太らせる。

人間はダメでいいんだ
気づけることが大事」
という言葉を残されています。

お酒がダメ
ケーキがダメ
甘いものを食べるのがダメ
何じゃない。

お酒、ケーキ、甘いものの
せいにしてはいけない。
それを選んで食べているのも
いっぱいたべようとしたのも
人間の仕業。

だから
食べ物を責めるんじゃなくて
食べ過ぎたことを
教えてくれたことに感謝して
口にすると
結果は異なってくるんじゃないかな?

人間って
意思が弱くて、ダメななんだと
思うかもしれないけど
そのことを気づけることが
大事なことなんだよ。

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死をどう考える?

人間だけでなく
この地球に生まれてきた全てのものに
必ず死が訪れる。

どんなに偉くても
どんなに徳を積んだとしても
いつかは必ず死が訪れる。

死がどのようなものか
誰にもわからないし
臨死体験を経験されて
死の入り口を語られる人も居るが
それが死の全ての世界を現してるとも
思えない。

わからない世界だから
人々は死をいろんな捉え方をする

死に対する受け取り方には
4通りあると思います。

①生きている間
自らの欲望のままに生きてきたため
死によって
自分自身を含めて、
地位も財産も含め全てのものが
死によって奪われることを怖れ
死をある意味敵対視するような
見方をしてしまう人

②死を永遠の眠り
死で全てが終わる。
生きている間のあらゆる苦から
解放されると考える。
そう考えることで
死に対する恐怖というものは和らぎ
死を自分なりに理解し
死を受け入れることができる。

この①②の死の捉え方は
人間以外の動物や植物にはない考えたでしょう

なら、動物は死をどのように捉えているのでしょう。
きっと
③生を充分に全うするタイプ
生きることに全力投球し
生きることに全集中しているので
死を意識すことはないのでしょう。
弱肉強食の世界で
突然捕まって食べられ
予想もしない死を迎えたとしても
悔いを残すことなく
どんなときにも
死を迎えた瞬間に
生きたことに感謝し
悔いのない人生を送っているのだと思います。

そして、最後は
④死は終わりでなく
新たな生へのはじまりであると
考える。
死は次の生に対して準備期間である。

僕も死がなんであるのか
全くわかりません。
しかし、命と日々向き合ううちに
死に対する色んな方の話を聞くうちに
死を語ることは
今という時間をよく生きることに
つながるような気がするのです。

誰も避けて通れない死を
考えることで
今をよく生きれると思います。

そこで
僕の考える死についても
このブログでお伝えできたらと思います。

死に対しては
全く僕の私見ですが
これからもお付き合いいただければと思います。

よろしくお願いします。

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