年別アーカイブ: 2025
あなたが言うことは正しいけど
僕と同世代で
最近テレビなどでよく取り上げられている
その自由な発言が人気の
長島一茂氏と高嶋ちさ子氏が
「自分が一番常識人であり
他の人はみんな非常識人だと思っている」と
お二人らしい発言をしていた。
そう思わないと
こんなに自由奔放な生き方はできない
その考え方に納得したのだけど
自分にもそんな思いがあることにも気がついた。
自分は正しいことをしていると言えるから
胸を張って生きていけるのだと思った。
そう思った時
先日薬師寺の僧侶から聞いた
言葉を思いだした。
その言葉は
「あなたが言うことは正しい。
でも、絶対ではない」という言葉。
その言葉を聞いて
仏様から僕のことを認めてくれているけれど
謙虚な気持ちを忘れるなと言われていると思った。
謙虚な気持ちをもって
強く生きていきたいと改めて
思ったのです。
人に喜んでもらう生き方
”こんな風になりたい”と
思えるお手本になるような人がいますか?
もし、あなたが心からこうなりたいと
思える素敵な人に出会えたら
その方から
多くのことが学べると思います。
僕が、素敵だなぁと思える人は
”何を人に与えることができるか?
何をすれば人に喜んでもらえるか?
どうすれば人がしあわせになるだろうか?”と
自分のことではなく
常にまわりの人を思いやってる人です。
そんな風に思っている人は
見ただけでわかります。
いつも
”できることはありませんか?
何かお手伝いさせてください”と
メッセージを送ってくるからです。
そのメッセージは
どこにいても、誰に対しても
いつも同じなのです。
毎日、いつもどんな時も
会う人、会う全ての人に
何ができるかを常に考えてるから
いつも同じなのだと思います。
”give and take”でなく
”give and give”で考えることが
大事なんだと思います。
giveできるものは
”もの”ばかりではないと思います。
”知恵”であったり
”アドバイス”であったり
目の前の人に喜んでもらえる”こと”
なのかもしれません。
お金でも運でも
循環する性質があります。
自分が与えたものは、
何十倍にもなって自分にまた帰ってきます。
今成功している人は
”社会からしてもらっていることが多い”と思えるから
”その分を与えているから”
成功しているのだと思います。
望みをかなえる方法は、
実はシンプル。
”今、何かしたいことがあれば
それを誰かにしてあげればいい。
そうすれば
簡単に手に入るよ”
だから
“人の喜びを我が喜び”と
感じられた人
そんな生き方が出来た人が
本当の成功を手にするのだと思います。
人に喜んでもらえるような
生き方ができるように
日々精進しようと思います。
しあわせのハードルが下がる
病気と健康の状態を比べると
病気になるより
病気にならないほうがいいに決まってる
と誰もが思うだろうし
それは真理だと思うから
人々は病気にならないように
巷では
いろいろな健康法が発表され
僕の元にも
からだのいろいろな悩みを抱えて
訪れる人がいる。
でも
いざ病気になって
それも長い間入院生活を強いられると
病気になったから
わかったこと
それも良かったと思えることがある。
それを
日々忘れないように
こうして少しずつだけど
書き留めているわけだけど
病気になって感じた
良かったことのひとつに
しあわせだのハードルが下がったことがある。
すなわち
今までなんとも感じなかったことに対して
感動することが増えるのです。
例えば
朝起きたとき
昨日全く動かなかった左の指がピクピク動き
ベットの手すりがつかめたこと
・・・・そんなことだけで
うれしくて涙がでました。
朝起きて
毎朝山から日が昇り
色も形も異なる
朝焼けの光景に感動して
写真を撮っては
家族に送ってました。
その他にも
鳥が病室前の手すりに止まっただけでも
会いに来てくれた気がして
喜んでました。
初めて
病院の外を散歩したときは
風が僕の歩みを
応援するかのように
背中を押してくれてるように
有り難く思いました。
食事も
肉と言えば鳥
魚と言えば鮭ばかりだったけど
あるときは煮てたり、揚げたてあったり
カレー味だったり
ムニエルだったり
同じ味ではないことに
感謝でした。
これが健康の時だったら
朝起きても、外を歩いてても
食事をしているときでも
仕事のこと
今やらないといけないことなど
考えることがいっぱいありすぎて
今の太陽の姿も
遊びに来てくれたかもしれない
鳥にも気づくことなく
毎日の食事も
エネルギーとしてからだに放り込むだけの
食事だったに違いない。
なんと
自分の周りにたくさんあったしあわせに
感謝せずに過ごしたことだろうか?
と言うことに
病気をしたことで
気づかされました。
これは
病気をして
しあわせのハードルが下がったから何ですよね。
病気をしたおかげで
しあわせのハードルが下がり
しあわせをいっぱい感じられるようになりました。
ですから
実は病気をしたことにも感謝なんです。
足下の木の葉
その朝
いつものように
氏神様の周りを
竹箒で掃いて
さっぱりした気持ちで
お参りをしていた時の
ことでした。
さっぱりした気持ちで
神様の前で
手を合わせて
ふと足下をみると
足先に黄色い木の葉が
合ったのです。
お参りの前に
はいたばかりなので
こんな目立つ木の葉が
あるはずはない
掃かなかったはずはない・・・と
思って
自分の掃除をしたということを
肯定しようとしてました。
その時
ふと思ったのです。
ここに確かに木の葉があるのです。
もしかしたら
掃いたときにもあったのかもしれない。
その木の葉の存在に気づかず
見ようとせずに
勝手に掃除ができたと
思ってしまったのかもしれない。
掃除完了と
判断したのは自分自身の頭。
つまり
思考だったのです。
実際に
やらないことは
まだ残っていたのに
終了としたのは
自分自身の心。
病気の時も
見落としていることって
多くないだろうか?
原因を頭だけで
考えてないだろうか?
そうしていると
大きな木の葉
つまり大きな原因が
足下にあっても
気づかないんですよね。
頭で見るだけでなく
肉眼の目を
心の目でも素直にとらえることが
大事なことを
足下の木の葉が教えてくれました。
病気の原因は
必ずあるし、示してくれている。
それに気づける生き方を
しなさいということを。
直感力を磨く
現代は多くの情報が
インターネットを通じて
多くの人が
簡単に受け取ることができます。
手軽に
情報を手にすることができるので
便利な反面
戸惑いを感じている人も
多くいらっしゃるのも
今の世の中の特徴だと言えるでしょう。
我々の受け取っている情報量は
時代ごとにに換算すると
平安時代であれば一生分
江戸時代であれば一年分の情報量が
1日に受け取ってる情報量と
言われています。
情報量はどれくらいか
わからなくとも
その量の多さは
現代人の誰もが感じていることでしょう。
現代の人々の生活は
江戸時代に比べものにならないぐらい
激しく、動いているいるので
生きていくために必要な情報量は
格段に増えているのも
確かでしょう。
しかし
全ての情報量が必要かと言えば
決して
そうだとは言えないでしょう。
莫大な量の情報のなかから
必要な情報をピックアップする能力
つまり
自分自身の直感力を
磨く必要がでてきています。
今必要な情報のひとつに
コロナウイルスに関することがあります。
ウイルスがめにみえにものであってり
まだ不明な点も多く
様々の専門家が各々の立場で
意見を述べられるので
全ての話に耳を傾けていると
文字通り目が回ってしまいます。
その情報を
自分にとって有意義かそうでないかを
ふるい分けるのが
直感力です。
直感力は
本来の自分、本質の自分に
訴え判断する力です。
その力は
自分のこれまで経験したの中から
判断するのでなく
潜在意識、超意識を働かせて
判断するのです。
脳の部分で言えば
論理的に考える左脳を使うのではなく
右脳で判断するということだと
思います。
このことを
自分自身の声、内なる声、ハイヤーセルフの声と
言えるかもしれません。
右脳に働きかけて
判断された自分の思いなのです。
その声を常識や経験に根ざした
左脳の働きで
右脳からの直感力にきずかずに
過ごしてしまうことが
多々あります。
右脳からの声は
いつも我々の耳に届いているのです。
それに
気づかないふりをして
我々は生きているのですね。
ですから
直感力を磨くために
①いつも内なる声に耳を傾ける
②その内なる声に従って行動してみる
③行動することで生まれた結果を
内なる声に従って行動した結果であると
自分の行動を納得する
と言う生活をつづけると
あなたは、直感力に従って生きられる
情報に振り回されずに
生きていけることができるのです
運命を分けるのは②
前回のブログで出来事が起こった時に
どう解釈するかが
運命の分かれ道だという話しをしましたが
今回は
運命を分けるもう一つの考え方。
それは、何か失敗した時の
考え方というか行動。
失敗した時、2つの行動パターンがあります。
ひとつは
その失敗をしたことを隠してしまう行動。
これは、自分を守りたいという
保守的な、名誉を守りたいなどという
自分の小さなエゴを守る行動の現れ。
この場合、失敗から更に悪循環が生み出されます。
もう一つは
失敗を失敗と認め
謝ることにはあやまり、しっかり反省し
同じことをくり返さないようにする。
これは、もっと成長したいという大きなエゴの
現れだと言うことです。
失敗した時に
小さいエゴを守るか
大きなエゴをめざすかは
運命の分かれ道になるのです。
自然法則に従って生きている
梅雨明けすると
雨の心配することなく
安心して朝の散歩を続けています。
僕たちは
天気予報で
梅雨明けしたことを
核心するのですが
朝、歩いてるときに
自然が全く異なるのを
肌で感じます。
まず
空を見上げると
雲が少なく
澄み切った朝焼けの
グラデーションに
思わず足を止めて
空を見上げてしまいます。
吸う空気も
肌に当たる空気も
さらっとして
エネルギーいっぱいの風が
僕のからだを包んでくれます。
そして
耳を澄ますと
梅雨時期に毎晩聞こえていた
カエルの大合唱が聞こえないのです。
変わって
巣立ったツバメのさえずり
そして
暑さでイライラしてるのでしょうか?
お互いを威嚇するような
カラスの鳴き声。
肌で、目で、耳で
自然に気持ちを向けると
確かに
時は流れている。
季が変わった
つまり
梅雨明けしたことを感じます。
そして
感じているのは
人間などの生物だけでなく
自然も生物と同様に
地球全体、いや宇宙全体にある
自然法則を感じているのだと思います。
ニュートンは
リンゴが木から落ちるのを見て
万有引力に気づいたという
有名な話がありますが
僕は
ニュートンのこの話について
最近
この話は万有引力に気づく発想に
結びついたのは
間違いないのでしょうが
リンゴが木から落ちたのは
万有引力の問題だけでなく
リンゴの実が充分熟したので
リンゴ自身の意志によって
木から落ちたのではないでしょうか?
目には見えないけど
リンゴも生きている
生きているものだけでなく
この世に存在する全てのものに
生きている力、意志があるような気がするのです。
地球上に存在する全てのものが
宇宙の法則に従って
この世に存在しているのです。
梅雨が明けたのも
今朝太陽が昇ったのも
今、僕がこうして生きているものも
朝、セミが一斉に鳴きだしたのも
自然の法則に従ってることのあらわれ。
決して、時計、カレンダーをみて
生きているわけではない。
ニュースや科学ではなく
自然を感じて生きる
自然法則に従って生きていることを
忘れてはいけない。
と言うことを
梅雨明けの朝、散歩しながら
感じました。
運命を分けるのは①
毎日色んなことが起きます。
日々変わらないと思って
平凡な毎日を過ごしているように思えても
振り返ってみるちると
出会う人も違うし、やってることも違う
全く同じ日は一日としてないはずです。
その違いのある日々を
どう過ごすか、どう過ごしたかで
人生の結果は変わってきます。
日々のわずかと思える変化、出来事を
どうとらえるかどうかで
その後の人生はだんだん変わってくると思うのです。
そして、人生を分けるのは
「何がおこったか」ではなく
「起こったことをどう解釈するか」ということに
かかっていると思うのです。
お金の使い方
お金を稼ぐのは何のため?
生活・生きていくため?もあるでしょう。
人生を楽しく生きるためもあるでしょう。
でも
お金を手にすると
手にしたお金は失いたくなる気持ちが
あふれてきます。
そこがお金が魔物と言われる所以でしょう。
お金を稼ぐと同時に
お金を何のために稼いでいるのかを
もっていないといけないのです。
NHKの連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」のなかで
こんなセリフがありました。
「そなたが鍛錬し培い身につけたものは
そなたのもの。
決して奪われることのない一生の宝。
されど宝は分かち与えるほどに
輝きが増すものと心得よ」と。
お金は決して奪われることのない一生の宝。
お金をどう使うかがやはり大事なのです。
お金は下手をすると
簡単に失ってしまいます。
金を物に変えるのもお金の使い方のひとつ。
使ったことで、輝きを増すのは
お金によって手にした体験によって得られた
力や思い出はいつまでもこころの中に残ります。
ですから
体験や思い出にという
誰にもうばうことのできない財産になるものに
使うのがいいのだと思います。
病がからだと心を操る~メタトロンが教えてくれること~
病気が発症する前は
心の状態が
からだの状態に影響している。
つまり
病気になる前は
心が主人で
からだがこころの指示のもと
動いていた。
それが病気になると
そのからだと心の主従関係が逆転し
だんだん
からだのほうが主人になっていって
こころがからだの指示にしたがうという
立場が逆転してしまうのだ。
先日
受診された高齢の患者さんは
何年ぶりに受診された。
数年前に
からだのしびれ、睡眠障害などの
症状があり
メタトロンも受けられ
1回だけの受診で
その後音沙汰のなかった患者さんだった。
この数年間で
良くなっていたら良かったけど
今飲んでいる薬を処方してくれと
受診された。
お話をきくと
睡眠障害は続いて
最近専門病院で
薬を調整してもらい
睡眠できるようになったが
その病院が少し遠方にあるので
お一人での通院が難しいので
ご家族の付き添いがないと通院ができない。
ご家族も
忙しく、近くの病院で
薬をもらえたら・・・と思って
思い切って当院を受診されたようでした。
今の薬で
眠れるようになったようだけど
今まで通っていた
病院にいけない理由があるようだ
話していると
それは、物理的理由でなく
不信感などの理由で
いけなくなっているようでした。
少しでも
力になれればと思ったが
今飲んでいる薬は
専門医でないと処方も難しく
その処方までの間に
医師の苦労の跡も
薬歴からも感じられ
僕ができること
しないといけないことは
処方をすることではないと
強く感じました。
患者さんは
眠れないという極限の
からだの状態が
こころをも支配し
こころがガチガチに硬くなり
自分を苦しめている。
からだに支配されている
こころを解放させてあげるないと
この苦しみからはずっと続く。
まずは
今の病院の先生に
こころをむけて
患者さんの思いを届けることから
はじめないと思った。
そのための方策を
いくつかお話して
僕ができる薬の処方をして
その日の診療は終わった。
数年ぶりに会ったこの患者さんは
人が変わってしまったようになっていた。
病気になると
こころも、性格も
病気の状態にあるからだに支配され
変わってしまうのだろうか?
この患者さんを診て
こころが先かからだが先かを
見極めることも
からだの支配から
こころを解放するのも
僕の使命だと思った。
